「閉経記」「犬心」でも同時期のことが綴られていたが、ここでは父をみとるまでのことに焦点が当てられている。これは切なかった。
死に近づくにつれ、自分が愛し、また、愛された「父」は失われていく。父母を捨て、遠いアメリカに住んでいることで、伊藤さんは自分を責める気持ちにさいなまれ続ける。熊本とカリフォルニアを幾度となく往復しながら、これでいいのか、いやこうしか私にはできないともがき続ける様が胸に痛い。
著者の「情の濃さ」と「我の強さ」はまさに表裏で、分かちがたいものなのだろう。老いた父に精一杯のことをしてあげたいと思う一方で、仕事をせずにはいられず、熊本にいても夜は自分の家で一人にならずにはいられない。同じ愚痴を繰り返す父にイライラし、億劫でたまらないが、毎日何度も国際電話をかける。彼女のように徹底的に、そういう自分であることを見つめ、引き受けてきてなお、葛藤は消え去るわけではないのだ。そのことがつらく、また同時に、なぜか救いのようなものも感じる。誰だって苦闘しているのだと思って。
胸に迫ったところをいくつか。
「やがて死ぬ。それは知っている。でもやっぱり怖い。死ぬのは怖い。死はどんどん近づくが、どんなに近づいてもやっぱり遠い。その怖くて遠い道を一人で歩いていく。一歩一歩、重たい足を引きずりながら。そこにたどり着くまで、一日また一日を生き延びる。その孤独を、その恐怖を、娘に打ち明ける父であります」
「うちの家族は、妻と母を欠いてクリスマスと新年の重なるこの時期を過ごしている。そして私は仕事が捗らない。こうやって人を食い荒らしつつ人は生きていかねばならないものかと、一日に数回考える。
てな感じの愚痴を友人に垂れ流したらスッキリするかと思ってやってみた。却ってよくないことがわかった。その瞬間は、声に出して吐き出すことでストレスの度合いがさっと下がるが、ここもいやよねあそこもいやよねと声に出して言っているうちに父のわるいところばかり見えてくる。しかしそれは父の本質ではなく、本質は老いの裏に隠れているのだ。父の本質は、私を可愛がってくれて、自分よりも大切に思ってくれて、私が頼りにもしてきたおとうさんだ」
「『病と老いはどんどん拡大して、父を消していくと思う。でも、見送るとまた立ち上がってくるよ。ここまで来た道を。あの父とあの私が、確かにいたことを』と一年前に父親を見送った友人がメールしてきた。ちょっとほっとした」
「人前で泣くのは恥ずかしいが、とめられない。悲しいというのではない。悲しくない。後悔もしてない。早すぎたとは思わない。意外でもなかった。悲しいというのではない。ただたんに父の死に顔やからだを見ていると、子どもだった頃の父が思い出されてきて、なつかしいのである。なつかしさのあまりに涙が出る」
こうやって書き写していたら、また泣けてきた。
- 感想投稿日 : 2014年2月26日
- 読了日 : 2014年2月26日
- 本棚登録日 : 2014年2月26日
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