2013.03.12 第5巻まで読了なり。
city hunterからangel heart 1st、2ndに続くまで、なんでこんなにもこの所有者はわたしに漫画を貸してくれるのであろうか。
もちろん深い意味などはない。と考えている。
プラス、貸してくれる本の内容は、将太の寿司、中華一番、野口英世物語…確かまだなんかあったな…共通点がある気がする。
人との繋がりとか、思いやりとか。いわゆる「感動」に向かうシーンが必ず何処かに含まれているようなもの。
久しくそういうのに触れていなかった気がするので、(なんせオチのない話ばかり、私は読む。)所有者の意図とは別に、「わたしはたまたまそういうのに触れる時期だった。」ということの意味について、考えている。ただの暇つぶしをするってことです…。
(曲がりなりにも)社会人になり、6年という歳月が過ぎそうになっている。職場環境が特殊なこともあり、実に様々な人を見送り、見送られた。
昔私は、本当に小さい頃の話だけど、兄が、うちから300mも離れていないお寺の剣道教室に、2泊の合宿に行くというイベントだけで、大泣きしていた。(それも家族に隠れて一人で。)
別に死ぬほど兄が好きだったわけではない。いつも兄についてまわるようなお兄ちゃん子だったわけでも。
でも、2日会えないという事実が、「当たり前じゃない」子どもにとっては、いつもの様に兄がいる一日を送れないことが怖くてたまらないことのように思えたのではないかと思う。
「さよならをいうことは、少しだけ死ぬことだ」
と、村上春樹さんがどこかの本で誰かの言葉を引用していた。(つまり誰か知らない人が吐いた言葉です。)
まだ生き始めて数年のこどもにとって、つかの間の「さよなら」によって、何か初めて失うものがあるということを、無意識に受け止めていたのかもしれない。
(それを…家族に隠れて一人で泣いていたわたしは、すでにそのような人間の性質を持っていたのだなぁと、自分の性質の変わらなさに、背筋が凍る思いがするのですわ…。厄介な子だわーw)
話を元に戻すと、いろんな人を見送り、いろんな人に見送られて、「少しだけ死ぬ」ことを、繰り返してきた私は、確実に「死」に歩み寄っていったんだと思う。ただ、「慣れ」では片づけ切ることが出来ない、「失われたもの」に、向き合って、涙を流してお弔いをしてあげるような、心の揺れ動きなど、私は認める間もなく突っ走ってきた気がする。「今いるみなさん、さようなら、さぁ、次に出会う人は、どんな人たちなのだろう?」と。
グラスいっぱいの水が、あと一滴の水を垂らしたら、つつーっとガラスの表面を伝って溢れてしまうかのような、飽和状態を抱え、それを受け入れながら、わたしはまた、新しい一年を過ごすのだろう。ちょっと死んだ自分を認めて、「それが大人になるってことなのだ。」と、言い聞かせながら。
こうやって、「人との繋がり」をふと漫画という形を借りて、物語に起こして、溢れんばかりに溜まった透明な水を、少しだけ涙にして頬を這わせることが、今の私には、必要だったのかもしれないと、思う。
でも、欲を言うことが出来るのなら、それは、「私の物語」であるように、私は自分を見つめていたいと、叶わぬ望みに夢をみるのではないかと、思ったりしました。
- 感想投稿日 : 2013年3月13日
- 読了日 : 2013年3月13日
- 本棚登録日 : 2013年3月13日
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