ヘンリー・ジェイムズ傑作選 (講談社文芸文庫)

  • 講談社 (2017年8月10日発売)
4.33
  • (1)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 65
感想 : 5
5

 1874-1892年の作品を収めた短編小説集。
 高校生の頃岩波文庫の『ヘンリー・ジェイムズ短篇集』に出会って大きな衝撃を受けて以来、ジェイムズは私が偏愛する作家の一人で、書店で見つけ次第購入して読んできた。
 岩波文庫のそれには、ジェイムズ中期から後期にかけての「曖昧法」を用いた精妙な作品が4作収録されている。そこでは語りのストリーム上の「視点」は一人の人物に限定され、従って、知人のAさんとBさんが見えない所で干渉した出来事について、「視点」の人物はただ推測するしかない。出来事の推移を見つめていても、その真相はどうなっているのか、また他者であるAさんやBさんの心中については永遠に謎のまま残される。この不可知の世界を、ジェイムズは現実の人間の生をリアルに描出するために構築したのだが、掴み得ない他者や世界に取り残されて五里霧中に包まれる孤独感と不安が、私には「これが現代芸術だ!」という感嘆をもたらしたのだ。
 さらにジェイムズの文体は精妙であり、それを辿ることは大きな読書の喜びを約束してくれる。私は岩波文庫の短編集をもちろん何度も読み返したものである。
 さて講談社文芸文庫の本書には5編が収録されているが、そのうち「五十男の日記」「嘘つき」の2つはずっと昔に福武文庫『嘘つき』で読んだことがある。
 巻頭の「モーヴ夫人」(1874)は初期の作風を示し、「国際もの」のジャンルに属している。視点は複数の人物のあいだを渡り歩き固定されていない。ヘンリー・ジェイムズの初期の作品群を私はあまり好きではないのだが、本作はやや複雑で精緻なジェイムズの文体をじっくり味わえて、なかなか面白かった。
「五十男の日記」(1879)「嘘つき」(1888)には視点の限定による「曖昧法」の手法が見られ、特に後者は、以前福武文庫で読んだ時にはさほど高く評価しなかったものだったが、今回読むとやはりこれは素晴らしい文学作品になっていると感銘を受けた。若い画家ライアンの目を通して世界は観察され、以前求婚してふられたが、実はライアンから現在も密かな恋心を抱いて見られているキャパドーズ夫人、その夫で虚言癖のあるキャパドーズ大佐との三角関係を中心に事象は展開してゆく。この作品は更に後期の作品に見られるような出来事における「完全な謎」はあまり無いのだが、当然キャパドーズ夫妻の心は測りがたく、「他者の遠さ」が絶対的なものとして屹立する。しかもどうやら、これら3人の主要人物は3人ともが嘘をついているらしく、最後のライアンの感慨についても、読者は共感するよりも異質なものとして客観視せざるを得ない。
 この、テクストの記述ストリームと読者の胸中に流れる解釈の意味ストリームとが分離してゆくという二重性が、ヘンリー・ジェイムズの曖昧法の素晴らしい現代芸術的感触を感得させてくれると私は考える。記述ストリームに完全には没入し得ず、「覚醒する」ことを読者は要求されるのだ。この点は確かに「現代芸術」の核心であろう。
 出来事のレベルで「完全な謎」ではないという点、本作の5編ともがそうであるのだが、それでも「教え子」(1891)のような作品は非常に賢いが純粋な少年の像を描き出してとても魅力的だし、ジェイムズの文体や構成の精妙さが味わえて、やはり本書を通して、この作家が私にとって最も重要な、かけがえのない作家であることを確信したのだった。邦訳で全集が出版されていないことがすごく残念だ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学
感想投稿日 : 2022年5月14日
読了日 : 2022年5月12日
本棚登録日 : 2022年5月12日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする