黒革の手帖(下) (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1983年1月27日発売)
3.66
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本棚登録 : 1912
感想 : 187
4

 清張76歳、1976(昭和51)年に刊行された作品で、後期のものである。
 読んでみると、50歳前後に書かれた短編小説の濃密な文学的表現は、ここではやや抑制されており、文体はよりシンプルである。
 銀行員から銀行の金を横領して転身、銀座にバー(キャバクラのような感じか)を開き、さらに経済的勢力を拡充するべく、病院や大学の不正を見つけて恐喝し、莫大な金を得ようとする。
 この欲望の疾駆はむしろ透明である。清張は主人公の金への欲望を心理描写で緻密に描くようなことはせず、やはりいつものように最小限の(しかし的確で文学的な)心理描写しかしないが、次々と繰り出す主人公の行動が、プロットをぐんぐん進めてゆく。本格推理小説に属する『ゼロの焦点』のように、ここでもやはり、視点となっている主人公の心理はむしろ透明なのだ。そのため読んでいて、プロットは面白いけれども、なんとなく物足りないような気がした。
 見方を変えるなら、細かな心理の動きをあまり追わずに行動だけが確かに展開されてゆくこの物語ストリームは、寝ている時に見る「夢」にどこか似ていて、取り返しの付かないような行動を繰り返す自分をぼんやりと眺めているもう一人の自分がいるかのような、そんな隔絶が、このディスクールに構造化されている。
 だから、この物語は、銀行員として出世も何も見込めず周囲の同僚から好かれることもなく黙々と仕事に打ち込む女性が、「もし金を得て銀座に飲み屋を開いたら・・・」とあらぬ妄想に浸っているような、その「夢」の物語なのである。
 今年やたらに「夜の街」と呼称されるようになったこの世界では、やはり金銭欲と愛欲の絡み合いが描かれているが、主人公は決して誰か男性を愛することはなく、彼女は容貌があまり優れないという設定だから、裕福な男性客に拾われて経済的成功を勝ち取るという一般的な「夜の女」の成功パターンは望めないので、金銭的成功を求めるためには恐喝という手段に走る他ない。
 ただし一度だけ、男性客と寝る場面があって、「性に不慣れな女」である彼女は男のことを全く好きではないが、また抱かれたいという身体的とも言える欲求が理知とは裏腹に湧いてくる。その微妙な心理が描かれているところは印象的だった。
 横領と恐喝という犯罪的行為でのし上がろうとした女は、やはり最後は罰せられなければならないというのか、途中から物語は「急降下」に向かい、騙されさげすまれて、破滅へと突き進む。この最後の部分は読んでいて身が引き裂かれるような苦痛が湧き起こり、凄まじい地獄めいた悪夢のクライマックスに心奪われる。主人公の主体があまりに透明であるためにどこか物足りないような気がして読んでいたが、最後の方は苦痛に痺れながら一気に読み通した。この最後の部分の凄まじさゆえに、この作品の評価を一段高くした。
 後味の非常に良くない、さすが「イヤな感じ大王」松本清張の作品である。
 もっとも、主体の透明さの持続が、長い小説ではやや薄味で心許ないようにも思われるので、この作家の最良のものは、やはり短編小説なのではないかと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学
感想投稿日 : 2020年12月8日
読了日 : 2020年12月7日
本棚登録日 : 2020年12月7日

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