南方熊楠コレクション最終巻。
熊楠の専門は最終的に「粘菌学」だったろうと思う。従って本巻がいよいよ熊楠思想の核心に当たるわけだ。中沢新一の解題もいよいよ長大になっている。
森に分け入って粘菌を観察する熊楠の姿は、キノコを採集して歩いた作曲家ジョン・ケージの姿と重なる。南方熊楠も、正規の植物学を習ったアカデミズム派ではなく、アマチュアなのだが、その発見は当時としては国際的にも通用するものだったようだ。
我々にとって粘菌というのは、これを読んでもやっぱりよくわからないのだが、植物と動物の境界をさまようような、「微妙な」生物であるらしい。なるほど、そのへんに粘菌の面白さがあるのかもしれない。
そのように山野に絶えず分け入った南方熊楠は、神社合祀に対してはかなり本気で怒り、批判の論陣を張ったようである。巻末の方にそうした文章が載っている。
神社を合祀するということは、結局森を破壊することだ。熊楠の考えでは、日本人の民俗宗教は、「森」や「神木」に寄せられてきたものであり、神社はそこに後から付けられたに過ぎない。システムとしての神道は付属物であって、日本人の民間信仰の本体は「森」の方にある。
この「森」を破壊することは、日本人の民俗伝統を破壊することであり、「愛国心」を破壊することである。
熊楠がここで言っている「愛国心」は、こんにちネトウヨが「当たり前」と標榜し、国家が学校教育に強要してくる「愛国心」とは、かなり違ったものだろう。熊楠の「愛国」本体は民俗的特質にあるが、後者のは制度的「国家」をターゲットにしている。
熊楠的に言えば、現在、森を失いもともとの民間信仰の大半を失った(言っておくが、天皇崇拝は伝統的な民間信仰であった試しはない)日本には、愛国心も何も残っているはずはないのである。
「当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷をくらうに異ならん。」(P528「神社合祀に関する意見」)
下痢は現在に至るまで、延々と続いてきたわけだ。
- 感想投稿日 : 2013年12月1日
- 読了日 : 2013年12月1日
- 本棚登録日 : 2013年12月1日
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