前2作のような、くすっとほろりとほっこりな傍聴記ではなく、とても重い一冊でした。元は2009年ですので、裁判員制度施行を目前に控えた模試が題材となっています。その模試、様々なジャンルが出題されているのですが、その中でも重かったのは「死刑」という量刑を考えなくてはいけない、「問題」。
と、まずお伝えしておくと、私は「死刑制度」は必要(悪)だと考えています。
「将来、一瞬でも悔恨する可能性があるのならばそれを奪ってはならない」とか、「そもそも人が人を裁くのは傲慢だとか」といった死刑反対論も、理解はできます。
本書の中でも「欧米では軒並み死刑が廃止されている」ので「文明先進国」、その動きに迎合できない日本はいつまでたっても「文明後進国」だとの論があります。ん、申し訳ないですが、この点については、日本においての文化や歴史、宗教などを素養として長年培われてきた、いわゆる「日本人の死生観」について、あまりに無視しすぎているのではないか、と感じました。
大雑把ですが、神道でいう「禊」の体現の一つとして「死」があると思っています。また、仏教での輪廻転生に伴う「業(カルマ)」の浄化も「死」と密接に関わっていると思います。そのため「死」は現世での全ての終わりではなく、やや乱暴ですが、生まれ変わって再び、現世でチャレンジするための儀式、との感覚があるのではないでしょうか。
一方、例えばのキリスト教は、死後は今とは異なった「別世界」に旅立つ死生観のため、現世での功徳を少しでも積ませたい、そのチャンスを奪うのは傲慢だろう、との感覚だと思います。宗教を文化のひとつとしてとらえ、その文化が倫理観を養っていくと見れば、これは、どちらが優れている、劣っているとの話ではない、かと。
ちょっと前に読んだ『傷ついた日本人へ(ダライ・ラマ14世)』の中でも「脳科学者たちも意識が何かわからない」との興味深い示唆がありましたが、、科学的には、輪廻転生が「有ることも」「無いことも」、どちらの証明もできておらず、決着はついていないと考えています。
なんてことを踏まえると、、裁判員制度の導入に伴って、いわゆる普通の人も「他人の人生(下手すると生死)」に責任を負う可能性が出てきたわけでして。。
古来より日本社会は「絶対的・唯一的な神」に統治されているわけではなく、あくまでも「人」と「人」とが対等に結びついている社会でしょうから、人が犯した過ちには、同じく人が覚悟を持って向き合い、時には人の生命に対する責任までもを、果たしていく必要があると考えています。
自分ではない誰かに「死」を与えることについて悩みに悩みぬいていく過程で、その重さと責任を感じていくからこそ、生命の尊さとも向き合えるのではないでしょうか。それがまた、日本人が培ってきた死生観でもあると、そう感じています。
そう言った意味では、「死」もまた「社会」を保つための責任の一つであるのかな、とも。
- 感想投稿日 : 2012年12月16日
- 読了日 : 2012年12月11日
- 本棚登録日 : 2012年12月9日
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