袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)

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  • 岩波書店 (2015年2月21日発売)
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100年前の1914/5/9袁世凱政権は対華21ヶ条要求を受け入れた。袁世凱はこの弱腰な態度に加えその翌年に自ら皇帝になろうとしたことなどから中国でも嫌われている。著者の岡本氏にしてから「まだ若いころ、少し知って、嫌いになり、立ち入って調べて、いよいよ嫌いになった。」と述べている。

当時の日本から見た一般的な袁世凱の見方はこうだ。辛亥革命で清から寝返り中華民国の臨時大統領となり要求を受け入れながら、その日を国恥記念日に指定し排日運動を裏でけしかけた信義なき俗物と。ではなぜそんな人物が皇帝に即位するところまで登りつめたのか。その時代背景を描写しながら、「日本人こぞって嫌中の時代である。嫌いなのは自由だが、嫌いなものをほんとうに嫌うべきか知るためにも、接してみなくてはならない。」と現代の日中関係に何か役に立てばと言う思いで書かれている。その中国人の一典型である袁を描いた結果はやはり嫌いなままだそうだ。

袁は科挙に3度落ちたところで早々と21歳で諦めた、名家の子弟としては出世を諦めるかなり思い切った決断だった。養父のコネで李鴻章の淮軍に入り、手下の有力武将呉長慶が率いる山東省登州の慶軍の参謀になる。挑戦で壬午変乱が起きた際まず先発隊として派遣されたのがこの登州部隊だった。この際袁は清朝側代表の馬建忠と呉長慶の連絡役だったらしい。

同じく進軍した貧弱な日本軍との交渉で属国の朝鮮に賠償金を払わせてまで講話をすることは無かったと馬を罵ったのが袁である。実態は呉と馬の主導権争いだったようだが。馬は失脚し朝鮮は相変わらず安定せず、改革派が起こしたクーデターの甲申政変を自ら1500の部隊を率いて王宮を攻め、国王を奪取したのが袁世凱の出世のきっかけとなった。

日清戦争が始まるまでの約10年「総理朝鮮交渉通商事宜」と言う朝鮮の対外交渉窓口となり、朝鮮に対する高圧的な政策を進めた。要するに朝鮮と外国に清国の威厳を見せつけるという役割だ。そして何とか朝鮮が清国の属国であることを認めさせようとしかけた。袁のミスは東学運動につけ込み出兵した際に日本軍は国内がまとまらず派兵できないと読んだことだ。日清戦争のきっかけを作ったのも袁なのだ。

清国末期には中央政府の力が弱まり、地方政府の独自性が増していた。ここに列強による勢力争いも重なり、権力構造はさらに変わりだす。改革派が西洋を規範にした日本モデルを取り入れ科挙を廃止し新しい学校制度を作り、中央と地方の重複する役職を廃止しようとした。これを進めたのが光緒帝である。

日清戦争で李鴻章の影響力が弱まると、一度つまづいた袁は軍事と外交のトップであった栄禄に近づき庇護を受けた。するとこんどは光緒帝が袁を抱き込みにかかる。未だに影響力を持つ西太后と西太后の影響で天津の直隷総督に赴任した栄に対するクーデターを起こそうとしたのだ。このときは袁が栄に報告し西太后が光緒帝から権力を取り上げた。

民衆の中からは排外、攘夷の機運が高まり太平天国や義和団などの軍事化した結社が生まれていく。対抗して西太后の北京政府は直轄軍を抱え、袁は宰相格の栄に変わりまず天津総督を代行し、ついで山東省を任された。袁の主張は義和団を制圧し外交を重視することだったが、義和団が北京周辺で外国兵と衝突しだすと西太后はついに列強に宣戦した。結果は惨敗だったが。ここでも義和団の本拠地山東省を任された袁の責任は重いはずだ。しかし失脚した栄に変わり袁が直隷総督、北洋大臣を継ぐ。ついに中国最強軍を率いるところまで登りつめたのだ。そして日露戦争後には軍事・外交のトップになった。

ここまでの袁はミスはあっても後世の悪評を受けるほどではない。所詮は清国内の権力闘争でどちらについたかでしかない。問題はこの後辛亥革命で各省が独立した際に共和制を目指す孫文に対し立憲制であれば良しと判断し、真の皇帝を排し新たな立憲君主として自らがついには皇帝になろうとしたところだろう。国のあり方を変えようとした孫文に対し、衣だけ変えれば良いとした袁、しかし現代の中国は袁世凱の系列にあるようにしか見えない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2016年1月2日
読了日 : 2016年1月2日
本棚登録日 : 2016年1月2日

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