巨龍に挑む―中国の流通を変えたイトーヨーカ堂のサムライたち-

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  • ダイヤモンド社 (2010年10月8日発売)
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同じく中国で働く身にとっては身につまされたり、それでも今の方がよっぽどましかと思ったり、98年と比べると中国もだいぶ変わってはいるんだなと思わせられたりと人ごととは思えない話です。

この話に出てくる成都に行ったのがおよそ1年前、1号店のあたりは巨大な歩行街で日本食もいくつかありましたが、開店当初は海鮮は寧波の船山から車で1週間がかりで運び(本州の端から端くらい)、野菜は地元の市場で買ってきれいに洗って並べたり、それよりも従業員にいらっしゃいませ(歓迎光臨)と言わせるだけでもそうとうな苦労。今でこそ中国のちょっとした店なら歓迎光臨というのだがその発祥がイトーヨーカドーだったとは知らなんだ。他にも中国のクリスマスやバレンタインデーなどもそうだし、北京では2000年の年越しカウントダウンに店を開け15万人以上が来店し、翌年から北京市政府が他の百貨店にも店を開けろと命令するほどだった。

初代董事長の塙氏が鈴木敏文社長に北京行きを命じられた時に営業本部の朝礼で500人ほどの店長などを前に一緒に中国で働いて欲しいとこう切り出した。「ただし、条件がある。1.利口な者はいらない。行動しないで頭で考える者は必要ない。2.バカもいらない。足手まといになる者も必要ない。3.私が求めているのは大バカ者だけだ。大バカ者とは、ひたむき、ひたすらとか、バカの一つ覚えでもいいから精一杯努力する人だ」もうこの先はプロジェクトXで、当初北京行きのはずが同時に成都でも開店することになり遂には成都が先に開店、それでも本社からの追加はなく、後にはたいがいの無理難題も飲み込む塙も勘弁してくれと弱音を吐いている。

当時の成都の日本駐在員は全部で27名、ヨーカドーの10名のうち中国語が話せるのはわずか一人で、97年3月に赴任すると成都市政府は半年後の9月に開店しろという。中国式なら一部だけオープンしてお茶を濁す所だがそんなことは知らない彼らは11月21日開店を目指した。まず売れ筋を調べるための市場調査ではゴミを漁り、民家で年収やどこで物を買うかを聴いて回った。取引先を回ってもヨーカドーの知名度は全くなく相手にされない。そして最新式の単品管理の導入を条件に参入許可を得たのに肝心のPOSが条件によって変わる税金に対応できず直前になっても動かない。元々そう言う習慣のない当時の中国で単品管理と行っても色やサイズが違うものをわざわざ分けて管理することがなぜ必要か従業員にも取引先にも全く通じないのだ。軽食や加工品では硬度の高い水のためにご飯もうまく炊けなければパンも焼けない。多少人が集まったのは開店3日間でその後は廃棄した食品にだけ近所の人が集まってくると言う状態だった。伊藤雅俊名誉会長が常々言っていた「客は勝ってくれないもの、取引先は売ってくれないもの、銀行は貸してくれないもの」という言葉が腑に落ちるようになっていた。北京1号店も工場跡地の低所得地帯で開店当初は盛況だがそれも10日ほどだった。

苦戦続きの中から少しづつ明かりが見え始める。最初はあんぱんだ。今でも美味しいパンがどこにでもあるわけじゃないがメーカーの技術指導を受けて作り上げたあんぱんは利益は出ないが飛ぶように売れた。一人10個に制限しても露天で転売する物が現れるほどだった。1日売上高100万元を目指して7/25、26にイベントをした時それまでの中国の常識では夏でも冷たい物は飲まないと言うことだったが、試しに氷水に冷やしたジュースやコーラを出すとこれまた売れた。開店1周年には200万元の売れ上げを目指しボアのスリッパが飛ぶように売れた。初年度の目標5億元に対し実績2.4億で7800万元の赤字だったが1年で何人かの従業員が変わって行ってるのがわかる。これはすごい。

塙氏の言葉に「中国に染まれ。ただし染まりすぎるな。」と言うのがある。日本のやり方をそのまま持ち込んでも当然うまく行かない。「中国で生きようと思うなら、中国人と目線をあわせるしかない」だからといって全て中国のそれまでの常識でやるならわざわざ日本から出て行くこともない。ヨーカドーは苦労しながらも取引先への支払いは絶対に遅らせず徐々に信頼を築いて行った。あいさつや管理がわからない従業員にも日本人が率先してやることで少しづつ理解されて行く。冷たいジュースなどは今なら普通に売ってる(ただし相変わらずぬるいビールも当たり前のように出てくる)が中国の常識もこの本と今とでは色々変わっている。

大きなインパクトを生んだのは一つの投書だった。北京店は立地が悪かったが塙のたとえ話「遠くの美人より、近くのおばあちゃん」を誤解した従業員の行動が思わぬ評判を呼ぶ。塙は小商圏を大事にしようと「近くのおばあちゃん」と言ったのだが牛乳売り場を担当した蘇智琴は一人のおばあちゃんが1ケース入りの牛乳を買うのをみて日持ちが市内から毎日買う方がいいとアドバイスしたが持病がありとても毎日は来れないという。そこで蘇は自分が代わりに買って毎日配達を始めた。「近くのおばあちゃんを大切に」最初はなかなか信用されなかったがそのうちに買い物が増え、さらにその話を聞きつけたもう一人のおばあちゃんの分も増えた。買い物をして店を出るのが4時でまっすぐ帰れば30分の所を2軒よっておしゃべりをして掃除の手伝いをすると帰宅が9時になることもあった。半年は毎日それから2カ所回ってることに気がついたおばあちゃんにより1日おきになったが1年経った頃おばあちゃんが表彰状を届けたいというが蘇は近所の人に宣伝してくれればいいと言うだけだった。このおばあちゃんが新聞社に投稿しヨーカドーの信頼が一気に高まった。最初に配達を始めた時にはまだパートだった蘇は2010年には亜運村店の副店長になっている。

今では蘇州にもイズミヤがありレジで普通に頭を下げ謝謝光臨と言ってくれてるしことしはイオンも来る。それもこれもヨーカドーの成功体験がおおきいのだろう。有り難いことだわ。一方で上海高島屋のようにガラガラの店もある。ヨーカドーの成都1号店も黒字化するのに3年かかっているがそれも毎日の変化やSARS,四川大地震での対応で逆に大きく飛躍した。それにしてもこの人達の苦闘ぶりを読むと今の蘇州など楽なもんです、はい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 産業
感想投稿日 : 2014年4月15日
読了日 : 2014年4月14日
本棚登録日 : 2014年4月14日

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