わたしは「ひとり新聞社」――岩手県大槌町で生き、考え、伝える

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  • 亜紀書房 (2022年9月28日発売)
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昨今、出版関係でも「ひとり○○」というのはブームなのだろうか?
だって、「ひとり出版社」とか「ひとり書店」というのは、今や特別な存在ではない。
それが今度は「ひとり新聞社」ときた。「とうとうここまで来たか」という思いで本書を手に取った。

ハンドメイドの新聞づくりのあれこれの話が読めるのかな?と思っていたら、第1章でいきなり「あれっ」と思った。だって、新聞づくりとは直接関係がないような、自分が重い病気にかかり二度の心停止にまで至った話がしばらく続くから。
「おーい、いつになったら表紙のイラストのような取材記者の話になるの?」と怪訝な思いが湧きあがったが、最後まで読み通して、ようやくすべてが理解できた。
つまり著者にとって大槌町で新聞を発行することと、自分が瀕死状態から脱して生き続けていることとは、切り離せない関連性があったのだ。

私が思いついたのは、ぎりぎりの所で命をつないだ著者が、大槌町が大震災で受けた壊滅的な被害から再生しようとする姿とを重ね合わせているのではということ。だから病気のことは当然書かれるべきだったのだ。

それともう1つ気づいたことを書きたい。
本書に大槌新聞第1号の第1面が載っている(P62)。これを読めば、大槌新聞を一般的な「新聞」というくくりで捉えてもいいの?という疑問が生じるだろう。かと言って、いわゆるタウン紙でもない。
このような紙面づくりは岩手日報や読売、朝日といった、私たちが知る所の新聞とは違う。では何なのか?確かに彼女は紙面で「大槌は絶対にいい町になります」と言い続けたように、ある人から見れば稚拙なやり方かもしれない。

だけど私はここで大きな声で言いたい。大槌新聞は、一般的な新聞という概念をひらりと飛び越えて、新しい地域メディアの概念を創生したのだ、と。
だから他の新聞と比較して「こんなの新聞じゃない」とか「記者はそんなこと書かないよ」と言うこと自体がナンセンス。たぶん著者はそんな言説に多くさらされて来たのだろうけれど、自分は野球から見たソフトボールのようにいわば違うスポーツで勝負を競っているのだと無視すればいい。

そしてそんな著者の活動をスパッと正確に理解していた人がいたことを証明する記述が本書にはちゃんとある。
著者は、秋田県で長く地域的なジャーナリスト活動をしていた「むのたけじ」さんと会っている。その際、むのさんは著者に「頑張ってくださいね。ちゃんと見ていてくれる人はいますから」と声をかけた。

ここで改めて考えてみる――ジャーナリズムって、いったい何?
震災後、大槌町にも多くのジャーナリストが取材につめかけている。だが著者の指摘で読者が改めて気づくことがある。――多くのジャーナリストが取材するなかで、大槌町の人による、大槌町の視点での取材はないのでは?--と。

自分たちが一番知りたい大槌町のことを、自分たちの手で知り、そして多くの大槌町の人に伝えたい――彼女がこの本で書いた一連の取材活動と、紙面からこぼれた彼女の心の奥に潜む様々な思いは、どこを切り取ってもジャーナリズムの基本中の基本と言え、地域の人が知りたい情報を「新しく聞かせる」という新聞の本旨に照らすと、大槌新聞は「新聞」である。

私が特にそう感じたのは、彼女がよく「取材ネタがなくて困ることはないですか?」と聞かれて、そのときの彼女の答えがこうだからだ――「なんで困るの?だって自分の町だから、書きたいことはいくらでもあるし」。
これには目から鱗が落ちた。言い換えれば、記者がネタに困るのは、取材対象を自分の中心へと十分に近づけず、自分の“帰る場所”を別のところに用意しているからだ。

いや、私が偉そうに言わなくても、御年100歳超えだった大ベテランジャーナリストのむのたけじさんが正確に代弁してくれているし、むのさんの言葉は、冠のついた幾多の賞以上に、彼女の活動を後押ししている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年4月16日
読了日 : 2023年4月17日
本棚登録日 : 2022年12月3日

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