この著者はいつも、「ここには問題があるんだ」ということだけを言い立てて、それ以上議論を詰めていない、あるいは詰めようとさえしていない気がする。たぶん好き嫌いがはっきり分かれる本だと思う。私自身はというと、ちょっと苦手だ。でもまあ、おもしろかった。
さて、以下内容に関して。倫理は普遍性をもっている。殺人、姦淫、盗みはどのような共同体でも「してはいけないこと」とされる。和辻哲郎は、首狩族にとっても殺人は倫理への最大の違反だという。ただし「人間関係の理法」としての普遍的な倫理は「一定の風土に根を下ろした特定の社会として実現」される。共同体ごとに掟が異なるのはこのためだ。だがそれでも、共同体に生きる人々は、特定の社会的構築物である掟を通じて、普遍的な「倫理の原液」を汲み取っているのだと著者は言う。
倫理の普遍性を追及したのはカントだった。彼は幸福主義的な倫理学説を批判する。人が義務に服するのは、そうすることが気持ちいいからではなく、そうすることが義務だからだ。著者はカントの哲学的努力を認めながらも、私たちが倫理的でなければならないと説得されるのは、理論の正しさによってではないと指摘する。自殺しようとしている人を思いとどまらせ、売春する少女にそれをやめさせるのは、理論ではない。カント倫理学は、人格を単に手段としてではなく、目的として扱う義務があると説く。だが、この説明がどれほど倫理の普遍性をうまく表現していたとしても、その理論の正しさが人々を倫理的にするのではない。人々を倫理的にするのは、そうした理論が正しさをそこから汲み取っているような「倫理の原液」である。
「倫理の原液」に触れるのは、カントのいう理念的な「目的の王国」ではなく、「経験的性格における人々がすべて究極目的として取り扱われ得るような人間の共同体」においてであると和辻はいう。「経験的性格における人々」とは、「油断も隙もない人々」のことだ。そのような人々が暮らす現実の社会の中で、倫理は実現されている。
それはたとえば、客にうまいトンカツを食べさせるために毎日トンカツを揚げているトンカツ屋の親父の営みの中に生きているのである。
- 感想投稿日 : 2011年1月15日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2011年1月15日
みんなの感想をみる