たまもの

著者 :
  • 講談社 (2014年6月27日発売)
3.31
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本棚登録 : 164
感想 : 26
5

小池昌代の小説らしい小説よりは、散文的な文章が好きな自分にとって「たまもの」は、久しぶりに小池昌代の詩人としての力に魅了された作品だ。

最近の小池昌代の小説は詩的な趣が後退して、こんな事を言うのもおこがましい話ではあるけれど、小説家の描く小説のようになってきたなと思うことが多い。それは筋立てだとか仕掛けだとかという面もあるにはあるが、むしろ言葉の使われ方の違いじゃないかと思う。

登場人物が日記について触れる印象的な場面がある。曰く、私の日記は単語ばかりだと。それがあたかも詩人その人の日記の様式であるように聞こえ、何か重さのあるものを受け止めた感覚が残る。言葉には様々な意味を指し示す矢印が張り付き、堅苦しく言えばそれは定義の問題に帰結するのだろうけれど、もう少し柔らかに言葉の発するものを受け止めたい、と主張する詩人の声が聞こえそうになる。

気付いてみると、この小説の文章には句読点が多い。一つひとつの言葉が文脈の中に埋もれて仕舞わないように、切り出されているかのよう。確かに言葉の輪郭は際立ち、無言で音読する頭の芯で一つひとつ立ち上がる。それはまるで小石を静な池の水面に投げ入れたかのように、小さくはあるが決して見過ごしようのない衝撃を生む。それでいて投げ入れた小石はラムネ菓子でできていたかのように、水に触れた瞬間からたちまち輪郭を失う。残される波紋のみがそこに物理的な力の掛かったことの確かな証拠を示す。波紋は程無くして収まり、再び静な鏡のような水面が現れる。もちろん、時を置かず幾つかの小石が投げ入れられることもある。ほんの少し中心をずらした同心円は呼応するように近づきはするが、お互いの波を乱すことなく行き交い、やがて鎮まる。決して不規則に水面が掻き乱されることは、ない。

言葉の余韻とでも言うべきものが、この本には満ちみちているのである。

しかし言葉は所詮記号に過ぎない。如何に言葉の力を引き出すことが詩人の才であるとしても、波紋はやがて鎮まる。それだけでは後には何も残らない。この散文の中でも触れられているが、音楽のように一瞬だけ空間を満たし、聴衆の心の水面に波紋を広げることは出来るが、終わってしまえば何も残らない。

しかし、この喩えは、楽譜という連想へと繋がる。楽譜に記されているものは記号に過ぎない。しかし、そこに託された音楽という実体のないものは、その記号の組合せを再現する肉体を経て空間の中に立ち上がる。それと同じように言葉という記号の、記号としての再現を促す力を信じ紙面の上に並べて見せることは、写真のように何かをそこに固定する作業ではなく、何かを未来に託すこと、つまりは永遠に固定しないことを目指すものであろう。ひょっとすると写真家が写真に託すものも同じようなものなのかも知れないが、ここでは二次元から立ち上がる三次元的表象の再現性は問われることがない。言葉は、あらゆる意味において自由である。散文の中で言葉は定義された意味を失い、音だけが新な地平を開いてゆく。

それこそが小池昌代の詩人としての魅力。そしてそんな詩人の書く小説を読む楽しみ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2014年10月15日
読了日 : -
本棚登録日 : 2014年10月15日

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