はじめてであう安野光雅 (とんぼの本)

  • 新潮社 (2023年11月1日発売)
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『安野にとっては、絵本もマンガも看板絵も、すべて絵には違いないのだった(外国の宿帳には、ペンキ屋と思われてもかまわないと、Artist ではなく Painter と書いていた)。〈絵を描くことが嫌になったことは一度もない〉といい、独学こそ真の学問の道と信じ、創作のかたわら、さまざまな分野の見識を深めつづけた。そうして、本を読むこと、自分の頭で考えることの大切さを後代へのメッセージとしてくり返し訴え、2020年12月、94歳で世を去った』

安野光雅、と聞くと誰しも「自分が初めて安野光雅を知ったのは」と語りたくなる。その名前を知る前からその絵を知っている、と。

かく言う自分もまさにその一人。こどものともの「ふしぎなえ」が出版された頃からの付き合いだ。もちろん、それは自分の選択ではなく親の選択が先にあった訳だけれど。

美意識のめばえに、原風景的原初のインプットがどの位影響しているのかについて研究された成果があるのかどうかは知らないけれど、自分くらいの年代の人にとってのそれは、例えば藤城清治であり、お茶漬けに付いてきた広重(これはむしろコレクション欲の原風景か)であり、そして間違いなく安野光雅なのだ。

なんてことをついつい語りたくなってしまうのがきっと、安野画伯の凄いところだろう。

本書を編んだ数学者森田真生の著書は数冊読んだことがある。数学という学問はどこまでも論理を重んじる学問なので、概念のお化け(ということは、養老孟司風に言うなら、何でもありのお化け)みたいなところがある学問な訳だが、この人は常に身体の感覚ということを大切にしている人でもある。数学者が何故に安野光雅についての本をと思われる人はきっと画伯の絵本以外の著書を手にしたことが無い人なのだろうと想像するけれど(仮定の上に想像っていうのも失礼な話です)、画伯には数学者森毅との共著もあるし「算私語録」「散語拾語」なんて駄洒落の聞いた算数っぽいタイトルの著書もある。また数学教育論(水道方式)で有名な遠山啓が当時の「はじめてであうすうがくの絵本」シリーズの監修でもある。そして何より本人がきっと数学好きなんだろうな、と思うのは、その絵の、エッシャー、との類似性だろう。

『1967年(昭和44) 44歳/福音館書店の松居直にエッシャーの画集を見せ、絵本制作を後押しされる』

エッシャーの絵も、それこそ誰もが画家の名前を知る前から知っていたというものの一つだろうと思うけれど、その絵の主要テーマの一つのフラクタル的なタイル絵とでもいうもののヒントをエッシャーに与えたのがライオネル(父)とロジャー(息子)・ペンローズ。ロジャー・ペンローズといえば2020年にノーベル物理学賞を受賞して再び注目されたけれど、あの車椅子の天才、スティーヴン・ホーキングの指導教官であり、ベストセラーにもなった「皇帝の新しい心」(日本での売れ行きはともかく)の著者でもある。その本の中でペンローズはアラン・チューリングの理論を深く追求し、脳の働きにはそれと決定的に異なる機能が関わっていると結論付け、量子力学的情報処理が鍵だと語っている。

それを「感覚」と呼ぶべきなのかどうかは置くとしても、そういう考え方(感覚の大切さ)を安野画伯もきっと好んでいただろうと思うし、ひょっとしたらその本も読んでいたかも知れない(何しろフランスの蚤の市で古い数学の本を買う位だから)。もちろん、森田真生もまたその考えの流れを汲むものの一人な訳だ。

編者も含め、本書の中では領域を跨いで活躍する人々が安野光雅を好きな理由を語っているが、突き詰めるところ、その絵が好き、というところをぐるぐるとしているだけであるようにも見える。よく、好きに理由はない、などとも言うけれど、きっとそこにあるのは理屈(離散的な論理による言語処理)に落とせない感覚なのだろうな、そんなことをしみじみと思う一冊。それにしても、画伯の残したものの広大さに恐れ入る。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2024年2月1日
読了日 : 2024年2月1日
本棚登録日 : 2024年2月1日

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