『十六歳はやめてほしいなあ、と彼は言った』―『お母さんに見つかるな』
自殺した息子と残された母親の会話。それは当然残された母親の頭の中にだけ立ち上がる世界での出来事。その構図が既に、会話自体が想像上のものであること物語っているし、あくまでそのような設定で書かれた創作であるというのが小説を読む前提の筈。そう了解しつつも余りの切実さに心が動かされる。その切実さがどこまで作家の個人的な思いと繋がっているのかという下世話な関心は、十六歳という年齢についての二人の会話と『そしてヴィンセント・キーン・リー(二〇〇一~二〇一七)の思い出に』という献辞から否応なしに抱かざるを得ないこと。だが、それを、少なくとも読み終えるまでは、調べることを自らに禁ずる。
その『理由のない場所』では、深層学習によって鍛えられたアルゴリズムのように、既に語られた言葉が語られた以上の意味を生み出しながら再構築される。だからといって何かが解明される訳ではない。しかし、科学を志した作家自身の指向は主人公である母親に言葉の定義を吟味させ、再構築された言葉の中から息子の真意を解くべき問題として定義するように求める。けれども言葉にはニュアンスがあり(例えば「問題=Problem」は解答することを求められる出題とも捉えられるし、自身が犯してしまった解決困難な過ちとも捉えられる)、そのことを母親は理解していないと死んだ息子は指摘する。英単語のニュアンスを理解する息子は形容詞を愛し、英語を母語としない母親は少なくとも実態を伴い定義可能な(と自身は感じている)名詞に執着する。
中国で生まれ、生物学の博士課程に学ぶため米国に留学し、その途中で創作活動に専攻を切り替え、発表した作品によって作家としての評価を得たイーユン・リーは、作家自身の人生に起きた出来事に擬えたくなるような経験を重ねる主人公を描く印象がある。もちろんほとんど全ての作家と同様にリーもそれをやんわりと否定するに決まっている。しかしリーの小説の魅力は作家自身が経験してきたことに裏打ちされた切実さであるように多くの読者が感じることまでは否定できないだろう。例えばそれは「千年の祈り」でもそうだったし「独りでいるより優しくて」でもそうだった。そして、この『理由のない場所』ではこれまで以上にその切実さが迫ってくる。
『答えは言葉みたいにあたりを飛びかっていないな、と私は言った。疑問は飛びかってるよね? 彼が言った。ほんとにね』―『飛びかっていない答え』
だからといって、物語に大きな筋書きがある訳ではないし、残された母親の抱える苦悩に対する答えが示される訳でもない。ただ、一つひとつ章が進むごとに少しずつ時が経過してゆくのを見い出すだけ。しかしそれ以上の何が書かれるべきなのか。むしろ起承転結が見えていたり苦悩を克服するような展開が語られていたならば、想像上の息子から『三流の作家になってきたね』と言われてしまうような作品となってしまうだろう。これは答えのない探索の物語。何故という問いへの判り易い理由は、たとえ答えがあったにせよ、既に失われてしまった物語、『Where Reasons End』。もちろん答えは風の中に吹かれて漂っている筈もない。
『つまりリーは、「うまく言葉にできない物事」を語るためにこの小説を書いているのであって、現実を受け入れることに努めようとしているわけではない。たとえ語り得ないことだとしても、語らずにはいられないから書いている』―『訳者あとがき』
その通りだな、と思う。
- 感想投稿日 : 2021年3月26日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2021年3月26日
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