薔薇の名前〈上〉

  • 東京創元社 (1990年2月18日発売)
3.86
  • (262)
  • (212)
  • (314)
  • (22)
  • (5)
本棚登録 : 3737
感想 : 247
5

エーコの「薔薇の名前」を再読し、 改めて恐ろしい本であることを認識する。ミステリーとして最初に読んだ時の面白さも、依然ある。但し、結末を覚えているので「知りたい」気持ちに急かされることなく、最後まで比較的じっくりと読む。再読のきっかけとなったボルヘスの短編集と比較して読み直してみたのだが、「薔薇の名前」が「紙葉の家」に与えた影響についても考えが及ぶ。オリジナルの手記があって、手記の話の中にも隠された写本があり、全体を著者が翻訳したメモを基に書き起こした、というスタイル。さらにどれかどうと言えない程あるパスティーシュや、古典の引用。「紙葉の家」のスタイルは、ここにあったのかと、ぼんやり思う。まぁホラーとミステリーの違いはあるけれども。

ミステリー、と思うのは読者の、あるいは出版社の勝手な思い込みで、著者がそう決めた訳ではない。エーコといえば「開いたテキスト」で有名だから、そこに書き込まれている変数に、勝手に手持ちの数字を入れて出て来た答えを持って行ってくれ、という類いの本だろう。それに、ボルヘスと同じように過去の文学作品などへのリンクも多々あり、読む側がどれだけついて行くのかによっても読み取れるものは変わってくる筈だ。それはそうだが、これはよく出来たエンターテイメントであると思うし、ミステリーと呼ぶことに個人的に抵抗はない。

そもそも、主人公のフランチェスコ会の修道士からして、バスカーヴィルのウィリアム、という名前だ。シャーロキアンでなくても、コナン・ドイルの「バスカーヴィル家の犬」が連想されるだろう。また、イタリアを舞台の中心におきながら、この修道士がイギリス人で背が高いことや、また、弟子のドイツ人見習い修道士とのコンビからして、ホームズとワトソンの構図がどうしてもちらついてしまう。そうしてみると、盲目の修道僧ホルヘは、さしずめモリアーティということなんだろうか。

ところで、ホルヘといえば、ボルヘスのミドルネームでもある。もちろん、エーコはどことなくボルヘスを意識してこの人物を描いているのに違いないと思う。博覧の盲目の老図書館長。それだけでも充分だが、そもそも「薔薇の名前」は架空の写本を現代に復活させたという構図を取っていて、一度手元から失われたその写本についての資料を発見するのが、ブエノスアイレスの古本屋であり、そこはボルヘスが国立図書館長を務めていた町でもあるのだから、偶然の設定ではない筈。

もっとも、前回読んだ時には、こういう記号は基本的に無意味な記号に過ぎなかったのだけれど、今回は、もう少し色んなことに気がついた。そう解ると、読みながら、あれ、ここは斜めに飛ばして読んでたなぁ、という部分も随分ある。例えば、ウィリアム修道士と弟子のアドソの間で語られる長々とした師弟の会話など。ウィリアム修道士いうと、オッカムの剃刀で有名な実在の修道士だし、この架空のウィリアム修道士の友達としても文中に登場する。そして、ウィリアム修道士の尊敬する自然哲学派ロジャー・ベーコン。その辺を意識して読むと、話の筋とは直接関係なくにも、理性というもののあり方についての興味深い話があることに気づく。

異端論議に絡んで、中世に交わされた論議も繰り広げられるが、その頭でっかちな話のやり取りに苦笑しつつ、その裏でウィリアム修道士の持っている自然派の考え方にどうしても心情的には傾倒してしまう。そしてまた、そのことをエーコが意識して書いている感じも伝わってくる。多分、エーコはほとんどの読者がそういう気持ちになることを見越したうえで、それが現代という視点から歴史を見ているせいであり、その時の議論の連綿たる結果として我々が近代科学を奉じている現代人だから、そう見えるのだということをやんわり指摘しているのだと思う。

それでも、経過を忘れて結果だけから過去を見ることは可能だし、ほとんどの人はそうして居るんだ、ということを覚えておくべきだろう。例えば、本の中には、訳出すべきではないと著者が指定したラテン語の文章が出てくるが、その意味を知らなくても話の筋には影響がないようにも思える。ただ、それを知っていることと知らないことによる差があるかも知れないことは、忘れない方がいいんだろうとも思う。この辺り考え方について、エーコはボルヘスに比べるとニュートラルな感じがするけれども。

本の中ではいくつかの論争が繰り広げられるが、そのほとんどのものは、既知の知識は「反芻」するものか「探求」するものか、という態度の違いの問題であると思う。そして、そのことは決して過去においてのみ起ったことではなくて、現代にもある問題なんだということは今回の読書で一番意識させられたことだ。もちろん、エーコのことなので、「そんな哲学的な意味は勝手に考えてくれっ」て態度も匂うのだけれど、今回は何となく哲学書を読んでいるような感じで読み終えた。もっとも「開かれたテキスト」の目指しているものというのは、きっとそれが提供される状況によって変化するような「言明」のようなものなわけで、そういう意味ではエーコがどっちの立場に立っているかは、はっきりしているとは思う。さらに言えば、この話の中では「聖書」とか過去の聖人たちの「文章」などの解釈を巡る論争があって、暗にそれらの文章が開かれた意味を持ってしまっている、ということも皮肉っているのかもしれない。この辺は、エーコの「永遠のファシズム」を読んだ印象も混ざっている。

それにしても、「薔薇の名前」というのは仕掛けの多い本だと改めて思う。残念ながら、解説で説明されているようなヨーロッパの古典に精通していれば解るツボ、というのは自分には相変わらず伝わらないポイントであるけど、今回は今回で新しい「薔薇の名前」に出会えたように思う。何よりボルヘスとの関連に付いても一読者として確認できたことは良かった。多分またいつか「薔薇の名前」を思い出させる本と出会った時、戻ってくるんだろうな、という予感がする。ラテン語の勉強をしようかなぁ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2004年1月26日
読了日 : 2004年1月26日
本棚登録日 : 2004年1月26日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする