不死の人 (白水Uブックス 114 海外小説の誘惑)

  • 白水社 (1996年9月20日発売)
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感想 : 24
5

ボルヘスという名前を知ったのは、ウンベルト・エーコに飛びついていた時のことだ。当時出版されたばかりの「フーコの振り子」という本を、題名につられて読んだところ思いがけず面白く、映画にもなった「薔薇の名前」を図書館で借り、その後同じ図書館に並んでいたエーコの本を片っ端から読んでいた時に出て来たのがボルヘスだった。

「薔薇の名前」は一見すると中世歴史ミステリー風のエンターテイメントであるが、実際には難解の書であるらしい。読んでおいて、らしい、もないものだが、テキストに隠された意味を読み解く、という深さを許容する本ではある。翻訳ではきっとニュアンスが伝わりきらないのであろうが、中世の修道院を舞台とした写本にまつわる事件を描いたこの本には、アレキサンドリア大図書館を思わせるような修道院内の図書館が登場し、古い書物が謎解きの手がかりともなる。キリスト教文化圏の人には暗黙の了解の符牒があちこちに散りばめられているらしい。その図書館の盲目の館長が、ボルヘスをモデルにしているという説明があり、エーコの文章も多分にボルヘスの影響を受けているというようなことが、薔薇の名前の解説書に書かれていた。余談になるが、この解説書というか、ゲームの攻略本のような本が多く出版されていることからも「薔薇の名前」が多くの切り口を持つ本であることが解るというものだ。但し、その話はまたどこかで。

ボルヘスといえば怪奇譚、と連想されるほど、ボルヘスの書く短編には不思議なお話しが多い。ただ、話自体は入り組んだふうもないし、怪奇、という程には魑魅魍魎が出没する訳でもない。この本でも幻想的な構成のお話しはあるものの、奇々怪々なものは出てこない。出て来るのは不思議な人間たちだけだ。どことなく、民話風の小話、という風情がある。しかし、そこに出て来る書物の断片、断片に込められたイメージ、そのイメージから喚起される新しい意味、というものがボルヘスの小話を民話とは決定的に違うものにしているのも確かだ。

ボルヘスは記憶の人、とも形容されるらしい。確かに、彼の書物への言及にはただならぬものがある。目が不自由でもあった。なるほど記憶の人と呼ばれているのも素直にうなずける。しかし記憶の人でないどころか言及されている書物に触れたこともないこちらとしては、このハイパーな思考の飛翔に容易にはついていけない。相手がボルヘスと解っていなければ早々に投げ出してしまうかも知れない。

彼の、この書物の断片を通したハイパーリンクは、ある程度は無視しても読み進むことができる。リンク先が自分の記憶の中でアクセス不能なアドレスになっていても、物語は依然として魅力的である。そのことを、あらためて「不死の人」を読んで気づいた。大分以前に「ボルヘスとわたし」というボルヘスの短編集を読んだことがあったのだが、「不死の人」と「ボルヘスとわたし」には重複した短編が網羅されている。2つ目の「死んだ男」という話を読み始めた瞬間、はっとしたのだ。この話は知っている。

その瞬間、わかった。
自分はボルヘスの小話が好きなのだ。
これでもかと言及される書物の断片に辟易しながらも、その話がとても気に入っているのだ。

「不死の人」の最後に収録され、「ボルヘスとわたし」の最初に掲載されている「アレフ」という話がある。アントニオ・タブッキの「逆さまゲーム」を思わせる出だしから、事態は急変するのだが、この物語に自分はとても惹かれる。アレフは、ヘブライ語アルファベットの最初の一文字であり、カントールの発見した「無限」という概念を表す文字でもある。この2冊の書における配置とその文字の意味とが交錯する。そして、そのインスピレーションに端を発する期待を裏切ることなく、「アレフ」では、その言葉からの勝手なイメージの発散、が最後に見事に収束する感じがある。好きだと意識すると不思議なもので、書物への言及についても、それ程気にならなくなる。勝手なものだ。むしろ逆にその言及に急に興味がわいてもくる。

このボルヘスのハイパーリンクは、実はとても親切なやり方なのだ。自分の書き記した文章だけで読み手に言いたいことが伝わらなかった場合、読む方は「ああ、あのことか」と納得できる切っ掛けをもう一つ余分に与えられている訳だ。その指し示す先について不案内な読者なら、別の機会にそこへ辿って行くことも可能なのである。そう思えば、ボルヘスのこの概念の飛翔は、知り合いの顔を、その人を知らない第三者に、知り合いはだれそれに似ている、と教えることに似た行為だと気づく。

リンクに怖じ気づくことなく、ボルヘスを読もう。
そして、その記号の意味にどこかで出会ったら、その時、ボルヘスを思い出したら、そうしたらまた読めばよい。出会いは一期一会というけれど、前後賞も組み違いもある。そのことに気づいたら、改めてボルヘスが読みたくなってきた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2004年1月14日
読了日 : 2004年1月14日
本棚登録日 : 2004年1月14日

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