茗荷谷の猫

著者 :
  • 平凡社 (2008年9月6日発売)
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本棚登録 : 430
感想 : 116
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「ただ僕が思うに、きっとこの人は御主人さんの手柄を残したかったんやな。意味はわからんでも、書いた人がその一心やったのはわかる。文は思いやからな」−『ぽけっとの、深く』

「染井の桜」、読み始めたがなかなか入り込めない気がして一度本を置く。別の本を先に読もうかとも思うが、一晩置いて改めて読み始めた。時代ものは少し苦手だ。しかし、その最後の頁で急に泣けてきた。本当に急に。あれ、なんでこんな感傷的な気持ちになるのだろう、と考えて、それが言葉に託されることの無かった思いに対して沸いてきた感情であることに気がついた。

一篇毎にゆるやかに時代が下ってゆく。少しずつ現実の出来事とリンクしながら。そういう手法には実は身構えてしまうのだが、徐々に気にならなくなっていく。時間という次元だけが変化して、その他の次元がそこに在った物質的な存在以外の一切合切を全て包括して漂ってゆく、というイメージが沸いてくる。思いが、人という媒体を通してではなく、その人の存在した空間に染み込むというイメージを最初に自分に教えたのは保坂和志の「カンバセイション・ピース」だった。久しぶりにその時に体験した感覚、それは鳥瞰図のように地平を眺めるような感覚で四つの次元の外に立ってしまうような感覚を、味わう。

この本の中では時間という次元を越えて受け取る人を待っている(いや恐らく待っているという言い方は余りに希望的すぎる言い方だろう、それはむしろ誰に伝えるでもなく残されたという方が現実的であるだろう)思いが溢れている。人は、符丁のようなものを其処彼処に容易に見つけ出してしまう生き物だ。見出してしまっては自らの思いにそれを重ねてしまう癖がある。だからこそ、この本に溢れている語られることのなかった思いたちが、あたかも時を越えて受け取る人が現れるのを待っているかのように見えてしまうのだろう。そして、そう思うことが希望的に過ぎると解っていながら、思いの空間への定着という考え方に心が動くのだろうと思う。そのオートマトン的脳活動を止めることはできないのだ。

もちろん、思いを言葉にしてみることはできる。しかしその行為に、託す、という要素がある限り、思いというのはいつも言葉に正確に乗っていくということを前提と置くことはできないだろう。それにもまして、思い、とは意味ではないだろうという思いも自分の中には強くある。

今では滅多に耳を傾けることはないけれど、10代の頃に傾倒していたある歌手の詩にこういうフレーズがある。「例えば此処で死ねると叫んだ君の言葉は必ず嘘ではない、けれど必ず本当でもない」。つまり思いというのは、何か一つの確定した意味を持つものではない、ということをこの詩は端的に言い表している。しかし言葉は受け取る者に意味を要請する。内田樹が言うように、一つの意味しか表わさない言葉(「メタ・メッセージ」)と「多義的解釈に開かれている」言葉があるとはいえ、いずれも意味を読み取ることを要請するのだ。その読み取りは大概において、開かれている、と思うのである。そこに思わぬ狭間が生じてしまうことも珍しくない。

まして時が経てば、その意味を成り立たせるための前提(コンテクスト)も変化してしまうだろう。でも何故か、時折、出会うのである、確かに受け取ったという感覚のする思いに。その言葉に託された思いが、時間も空間も、あるいはもっと根本的に言語すら越えて伝わってきたと、時に、思うのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2009年5月30日
読了日 : 2009年5月30日
本棚登録日 : 2009年5月30日

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