『だって、もし甲状腺の薬をもたずにジャングルで迷子になったらどうすればいいの、と私は言った。私は自分がいつかジャングルで迷子になるにちがいないと昔から信じているところがあるのだーー最近ではもうジャングルとは呼ばないらしいし、どちらにせよ地上から消えつつあるので「ジャングル」という言葉はもはや観念にすぎなくなっているのだけれど。彼女は言った、だいじょうぶ、きっと薬が切れて困る前にジャングルから出られますから』ー『甲状腺日記』
リディア・デイヴィスの頭の中の思考の回転の周波数に妙に共鳴する。一つのことに集中できないことに対して苛立つ感触も他人事とは思えない程に身に覚えがある。それ故、少々身につまされる思いを感じながら読み進める。
それは今回に限ったことではなかったようにも思えるけれど「ほとんど記憶のない女」や「話の終わり」ではその周波数の共鳴を面白がるのみだった。その変化は五年、十年という時間のもたらす脳の経年劣化なのか。あるいは今回の作品にやたらと登場する老いの印象が強いる感情なのか。
以前はこの作家の短く言い放たれたような文章にアフォリズムの響きを聞き取っていたのだ。その言い放たれた言葉が爽快だった。しかし長短入り混ざった「サミュエル・ジョンソンが怒っている」において、その短い言葉は哀愁を呼び覚ます。あとがきで解説されるように、これらの言葉には、作家が一瞬一瞬に感じた感情を頭の中から外へ持ち出すために書き付けておきたいという気持ちが滲み出ている。そう思ってしまうと、長目の文章の印象も大きく変わってしまう。余り深く考えてみなかった前二作の表題も、実は常に色々な感情や考えに囚われて、頭の中を整理整頓することが出来ない作家自身のことを表明していたのかとも見えてくる。
リディア・デイヴィスは短い文章が印象的なのでそれがこの作家のスタイルだと思いがちだが、実は様々なスタイルで文章を綴るのは本書でも相変わらず。 自分自身の頭の中の鳥り散り様と比較して言うのも気が引けるけれど、作家の頭の中のを想像してみると、そのことが作家にとって自然であることも判るような気がする。単純に一つの刺激が一つの出力しか引き出さないこともあるし、急に次々と連鎖を生むような時もある。それを他人は感情の起伏が激しいと捉えるかも知れないけれど、本人にとっては常に必死で返しているだけのことに過ぎない。ああ、よく解る。
とは言え共鳴が必ずしも共感に繋がるわけではないのもまた事実。もし、この女性が身近にいたとしたら大層刺激的ではあるとは思うけれど、一時も休まることはないだろうとも思う。完全な共鳴は濁った音を生まないけれど、ほんの僅かな周波数の違いは唸りを生む。それが鳴り続けると疎ましい気分になることもある。ポール・オースターもひょっとしてそんな気分だったのか、と詰まらないことを想像してしまう。
- 感想投稿日 : 2015年11月18日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2015年11月18日
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