「確信は次第に薄れていった。人間はひとりっきりで、誰とも話さずにいる時には、あるひとつのことを信じつづけるのはむつかしいものだ。その時、ドローゴは、人間というものは、いかに愛し合っていても、たがいに離ればなれの存在なのだということに気づいた。」
♪たららーたららーらら、たーらららー
どこかしら中央アジアを旅するような、厳しさと長閑さの入り混じった音楽を思い出しつつも(韃靼人の踊り)、ここに描かれる旅は底知れぬ恐怖を呼び起こす。
旅の目的地に確信を持てぬまま旅をする主人公を描くことで始まるブッツァーティの「タタール人の砂漠」は、どこかしら彼の「石の幻影」を思い起こさせる。しかし、旅の終着点に謎の根源がある事を知りつつ旅をする「石の幻影」の主人公は、そこに秘せられた目的があることを知っているし、物語としても、その謎を解くという目的が読者の中で自然に芽生え、ある意味で安心できる。一方「タタール人の砂漠」の主人公にとって旅は終着点に辿り着くまでの過程に過ぎず、そしてまた終着点に何があるかは問題ではない。そこは自分の人生にとっての終着点ではなく、一つの通過点であると信じている。しかし読者はその旅の終わりに、タタール人の砂漠、と呼ばれる場所があることを知ってしまい、それがこの本のタイトルであることから、大いに不安になる。
主人公は目的地に着く。そこで発見するのは当初の意味を失った建物である。にも係わらず大勢の人間が捉われ、目的が無い筈などない、という逆説的な狂信に取り付かれているのを発見する。そして、そこが通過点ではなく、出口のない場所になり得ることに徐々に気付いていくが、気付いたときには遅すぎる。その絡め取られていく過程が実に恐ろしい。
例えば、こんな風に物語りは進む。一つの出来事があり、憶測と妄信が錯綜する。しかし依然として何も狂信を裏付けることは起こらない。そして一足飛びに時が流れる。また繰り返される憶測。だか実は着実に状況は変化しつづけている。それが余りに小さな変化の積み重ねであるがゆえに、人々はその変化がもたらすであろう結果に思いを致すことができない。いや気付きつつもそれを否定するのだ。
あるいはここに今の環境問題に対して人類が取り続けている態度を重ねてみて恐ろしい気持ちになったりもするのだが、実のところ自分が感じる恐怖はエピソードとエピソードの間で瞬間に流れ去る時の大きさに対してなのである。それは40代の後半を迎えている自分自身が日頃実感する恐怖と奇妙に呼応する時間の重さであるからだ。自分自身もまたどこかへ進んでいるようでいて、同じ場所をぐるぐると回っているだけなんじゃないのか、という思いがふとよぎる。ここが終着点ではなく、通過点であると、一体誰が言い切れるのか。蟻地獄に絡め取られるような不安の渦が押し寄せる。
そんな自分の不安な心を救ってくれるのは傍に居るものの存在であると思うのだが、そんな心を見透かしたようにブッツァーティは孤独というものの本質に迫る。
結局のところ、人生は目的も目的地もない長い長い旅なのか?
ひたひたとブッツァーティの語る言葉の恐ろしさに犯されていく、そんな読書。読み終えたとき、何故か、鬼束ちひろの「私とワルツを」の詩の意味を深く考え直したくなる、そんな小説である。
- 感想投稿日 : 2008年11月3日
- 読了日 : 2008年11月3日
- 本棚登録日 : 2008年11月3日
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