犬物語 (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

  • スイッチパブリッシング (2017年10月25日発売)
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『軽い荷物を背負って、彼はユーコン川ぞいのカルメット野営地を発った。そこからポール・クリークをのぼって行って、ポール・クリークとチェリー・クリークの分水嶺まで行く。そこまで行けば、仲間たちが鉱脈を探し、ヘラジカを狩っているのだ。寒気は華氏にして零下六十度だった。独りで踏破すべき道のりは五十キロ。だがヴィンセントにはそれも気にならなかった。それどころか、楽しいくらいだった。静寂の地を闊歩すると、血は温かく力強く血管を巡り、心は気ままで愉快だった。何しろ彼と仲間たちは、チェリー・クリークの分水嶺で有望な「鉱脈[ペイ]」に行きあたったことを確信していたし、それに彼は、ドースンから本国の家族たちの陽気な手紙を携えて仲間の元へ戻っていく最中だったのである』―『火を熾す【1902年版】』

「犬物語」と題されたジャック・ロンドンの短篇集。柴田元幸翻訳叢書の「アメリカン・マスターピース古典編」の「火を熾す」を読んで興味が湧き、手を伸ばす。柴田さんのあとがきにもある通り、五篇の内の四篇は本の題名通り犬が登場する物語だけれど、1902年版の「火を熾す」には犬は登場しない。ただし、後に出版された版では犬が重要な役割として登場するし、本書に納められたカナダの大自然と格闘する他の犬たちと同じように、自然と一体化するでも完全に人間の側に付くでもない存在として振る舞う。両篇の違いは柴田さんの解説にある通り決して小さくはないけれど、主人公である男の名前が消された他にもユーコン川沿いの地名の変更や、気温の変更(零下60度から50度へ)、「(金)鉱脈」を探している段階から長く「採鉱」している段階へと移行していたりするが、そこに作家の心情の変化を読み解いたりすることもできるのかも知れない。因みに、実際にカナダで金鉱探しをした経験を持つジャック・ロンドンは用語などにも通じているようで、ペイ(Pay)とは金や石油などを掘り当てるかつての山師たちが使い始め今も石油業界でも使われる言葉で、採鉱・採掘の対象となる地層などのこと。「金になる」という意味合いから(WiKiにも記載あり)。とすれば地名なども実際の土地を思い浮かべて書いているだろうとの推察もでき、調べてみると、ユーコン川沿いのドースン(Dawson)はカナダ・ユーコン州の町。一方で、ポール・クリーク(Paul Creek)とチェリー・クリーク(Cherry Creek)、カルメット野営地(Calumet Camp)は実在するかは不明(少なくともユーコン政府発行のインデックス「INDEX TO CREEKS AND TRIBUTARIES(小川と支流の索引)」には見当たらず)。

『これはどう見ても零下五十度より寒い。五十度よりどれくらい寒いかはわからない。だが温度などどうでもよかった。男はヘンダスン・クリークの左側の支流にある、仲間たちが一足先に行っている古い採鉱地へ向かっている。彼らはインディアン・クリーク流域から分水嶺を越えて採鉱地へ行き、男だけは春にユーコン川の島々から丸太が採れる可能性を探ろうと遠回りの道を選んだのだ。六時までには着いて野営できるだろう。たしかに日はその少し前に暮れているだろうが、あっちには仲間たちがいるのだし、火があかあかと燃え、暖かい夕食が出来ているにちがいない』―『火を熾す』

そして何より、物語の語られ方に大きな変化がある。1902年版の物語は無鉄砲な主人公が大自然の脅威を初めて体験した如何にも物語という感じの展開であるのに対して、後年の版では男の年齢は不肖ながらも1902年版よりは歳を重ねているように読めるし、大自然の怖さを身を以て経験してきたかのような雰囲気も漂う。大騒ぎすることも無く、犬との吹雪の中の行進が静かに語られる。全く可笑しな例えだとも思うけれど、その違いは「青大将」と「五郎」の違いと言ったらいいだろうか。もちろん、どちらも田中邦衛の顔を思い浮かべているのだけれど。因みに、ヘンダスン・クリーク(Herderson Creek)はドースンの南約70kmにある。インディアン・クリーク(Indian Creek)はドースンの南東60kmのユーリカ川(Eureka Creek)の支流と上述のインデックスには記載がある。この場所は小高い地形ブラック・ヒルズの中腹にあり、「分水嶺を越えて」という記載とも一致する。

「火を熾す」の他にも魅力的な作品が並ぶけれど、やはり「野生の呼び声」が本書の中心なのだろう。分量も他の短篇よりも四、五倍ある。柴田さんの解説によれば、この物語の主人公たる犬の「バック」には作家の生き様、あるいは信条のようなものが投影されているとのことだけれど、人と人の間に生じる軋轢に対して正義感のようなもので対峙しようとしながら打ち負かされる人生に倦んだ作家が、この主人公の犬のように本能と自然から得た知恵を頼りに生きてゆく在り方に理想をみたというのも解るような気がする。皮肉なことにこの一作をもってジャック・ロンドンという作家は流行作家となるのだけれど、その内なる葛藤を鎮めることは終生出来なかった訳だ。

ところで、短い人生の間に多くの作品を残したというこの作家を読むには、柴田元幸の翻訳で読むのが個人的には一番しっくりとするような気がする。と言う訳でもう一冊読むことになる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2023年10月21日
読了日 : 2023年10月21日
本棚登録日 : 2023年10月21日

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