対訳 技術の正体 The True Nature of Technology

  • デコ (2013年11月8日発売)
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『技術というものは、どうやら人間の思惑などには左右されず、自己運動し、自己展開するものらしい』―『はじめに』

理科系の頭の中には常に因果律が根本的な心情として存在していて、原因となる運動があり結果となる作用がある、という考え方に知らず知らずの内に拘泥している。しかし複雑系という考え方を待つまでもなく、至極単純に思えたニュートン的運動力学でさえ、対象となる物体が二つから三つに増えただけでその行方を正確に予想することが困難となる(三体問題)。単純な因果関係は成立しない。それが分かっているから、問題を解くために問題の一部を極端に単純化し、解を求める。そうして求めた近似解を万能解のように振りかざしてより複雑な問題に応用しようとする。大切なのは定式化だというけれど、適用範囲を誤れば結果の精度は、もちろん、保証されない。初等数学を学んた時、1/xという解に、適用範囲をx≠0と書き添えないと正解と認められないというのはなんと面倒で美しくないと思ったけれど、適用範囲を越えてそれを振りかざせば手に負えない無限が襲って来る。日々扱う表計算ソフトウェアはそれを単純に#DIV/0とこちらの不手際を笑うのみだが、一度暴走を始めてしまったシステムを止めるのは容易ではない。それを想定の範囲を越えていた為と言い繕っても、手にしている解に限界があるとは中々認めない。この哲学者の言わんとしていることは、そういうことなのだろうと思って三つの短いエッセイの巻頭に添えられた文章を読み始める。

『むしろ、技術が異常に肥大してゆく過程で、あるいはその準備段階で科学を必要とし、いわばおのれの手先として科学を産み出したと考えるべきではないだろうか。そして、その技術にしても、人類がつくり出したというよりも、むしろ技術がはじめて人間を人間たらしめたのではないだろうか』―『技術の正体』

ところが、そこから思わぬ展開となる。理性は自然を理解する術かと思いきや、自然が理性を利用するのだという。技術が科学を必要とする。そして人が技術を産み出すのではなく、技術が人を人足らしめる、と。恐らく、技術の素、あるいは萌芽は自然の中に既に在って、人はそれを理屈(科学)抜きに模倣し利用しているのだ、というのがこの哲学者の主張するところなのだろう。林檎が落ちる中に科学的な真理がある訳ではなく、科学は自然の動きをおおまかに説明するだけのことに過ぎない。ある技術は無から考察によって産まれるというよりは、それが何故そうなるのかの理屈抜きに具現化する。例えば野球の投手が投げる変化球のように。その軌道がどのような放物線を描くのかを説明する科学は、全て後追いなのだ。投手は理屈抜きにその軌道を変化させる。

じっくりと考えてみれば納得できる話だが、今この瞬間も我々は誰に担保されたのかもわからない技術に頼って生きている。早さを競うロボットコンテストで、ローテクで勝負せざるを得なかった参加チームが、ハイテク制御を駆使した競争相手を次々に破ったのは、予想外の競技会場の温度にハイテク制御機構が暴走しロボットが機能しなくなったからだが、これもまた全てをコントロール出来るとうそぶいた途端、足元を救われた形だろう。

今や、人工知能はそんな理屈さえも無視して人間が判断することと同じことがてきるとさえ主張する。シンギュラリティを危惧する前に、我々はもっと自然の律動に寄り添った生き方を模索するべきなのか。但し、それを我々が判断できるという考え方もまた煽りであることは間違いないが。

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感想投稿日 : 2018年9月25日
読了日 : -
本棚登録日 : 2018年9月25日

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