港町の近代: 門司・小樽・横浜・函館を読む

  • 学芸出版社 (2008年5月1日発売)
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 港町が近代都市空間に変容し発展してきたプロセスについて語られる。各章で門司(福岡県)、小樽(北海道)、横浜(神奈川)、函館(北海道)を取り上げ、写真・地図・立面図を用いて詳細に説明されている。


小樽の歴史を追うと4つの発展段階が見えてくる。

1)明治初期~明治10年代中ごろ
 当時の小樽の中心は信香町あたりだった。海関所が信香町に移されるに伴い問屋も移動し、周辺一帯の街区が急速に整えられた。高台の山ノ上町には弁天社が置かれた。

2)明治10年代中ごろ~明治20年代末
 明治14年におきた大火で信香町をはじめとする勝納川周辺が焼失したのを機に、官公庁・商工業が入船町に移転した。入船町の後背地である住之江町は花街となった。住之江遊郭跡は現在でもその空間構造を残している。入船町市街と遊郭との間におかれた小樽駅(現南小樽駅)と手宮線が花街の結界の役割を果たした。入船町交差点の六差路は、かつて小樽の中心であったことを象徴するようである。

3)明治30年代
 港の中心機能は有幌町から水天宮下の港町・堺町へ、商業空間や生活空間は山田町へ、遊興空間は花園町へと移る。当時の土木技術では急速な発展に即した開発が不可能な水天宮山を挟むように、港と街の機能の分離が進んだ。本来「港、倉庫街、問屋街、住居地、花街、神社」となる港町の空間構成は、「港、倉庫街、寺社、問屋街、住居地、花街」となった。

4)明治40年代~昭和初期
 内陸部では旧小樽駅から移された「中央駅」、港側では「小樽運河」が建設された。小樽運河に艀が出入りし、運河に沿って石造倉庫群が建ち並ぶ。物流のための「出抜き小路」もうまれる。小樽の全盛期はこのころである。昭和に入ると、小樽駅前の道路と小樽運河でつくり出すT字型の都市空間の骨格ができる。しかしながら小樽の全盛期はここで終わる。

 歴史的遺産を売り物にしながら、その財産を観光は破壊している現状がある。歴史的都市構造の研究をベースにした都市再生が重要性を増す。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 都市計画・まちづくり
感想投稿日 : 2013年8月29日
読了日 : -
本棚登録日 : 2013年8月29日

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