芥川賞受賞作家、2018年の作品。映画化され、今秋、公開されている。映画の方は、私は未見だが、この小説を忠実に映画化することはかなり難しそうなので、相当に脚色されているのではないか。
「本作品はフィクションであり、実在の人物、団体、組織とは一切関係ありません。」とはあるが、「津久井やまゆり園」事件から着想されたことは間違いないだろう。
主人公、というか、主な語り手は、ある園の入所者であり、ベッドの上の「かたまり」として存在し続ける「きーちゃん」(性別・年齢不詳)。その「きーちゃん」が注目している人物が施設で働く「さとくん」である(言うまでもなく、やまゆり園事件の犯人である植松聖(うえまつさとし)を連想させる)。
「きーちゃん」は重度の障害者で、話すこともできず、目も見えず、歩行もできない。彼(彼女?)には人格的な片割れである「あかぎあかえ」と称する人物がいて、こちらは自由に動くことができる。戦争や災害などの記憶も宿し、片耳がない、特異な人物である。
さらに、園の入所者やその関係者が絡む。「ドッテテドッテテ、ドッテテド」とずっと繰り返している老人。評判がよかった一方、ある疑惑があり、おそらくそのことに端を発する事件をきっかけに辞めてしまう職員。入所者の母であり、自らの母親の介護にも苦しめられてきた女性など。
「きーちゃん」の語りは決してわかりやすくはない。ある種、詩のようでもあり、独特のリズムがあり、想念はあちこちに飛び、時にグロテスク、時に重い。それは人間の「業」について語っているのかもしれない。この語りに慣れるまでに少々時間がかかるが、乗れてしまうとさほど読みにくくないように思う。逆にいえば、その最初のハードルを越えるかどうかで読者を選ぶ面はある。
やまゆり園事件は多くの人に衝撃を与えた。
重度障害者には生きる価値がないとし、意思疎通のできない人を惨殺。それに先立って衆議院議長あてに犯行予告も出していたが、常軌を逸していたためか、まともに取り合われなかった。しかし、規模こそ予告ほど大きくはなかったが、ほぼその通りの手口で犯行は行われた。予告には、「障害者は不幸を作る」「全人類の為」といった文言が連ねられていた。
強烈な優生学的発想には、多くが異を唱えるところだろうが、かといって重度障害者やその保護者に本当に寄り添い、人権を尊重するというのはどういうことなのか、また、福祉施設の実態がどういうものなのか、実際に関わっていなければ、漠然と想像するしかない。その「漠然とした想像」に冷や水を浴びせられるような事件ではあった。
本作の「さとくん」は、どこか、光に浮かび上がる影絵のように思える。それは視点が「さとくん」自身ではなく、「きーちゃん」からのものが多いからかもしれない。「さとくん」の表情がはっきりとは見えない。
ひとり、踊りながら楽器でも演奏するように。
明るく、疑いなく、自身を「善」と思い。
楽し気な姿の彼からもたらされるのは、しかし、悪夢である。
「きーちゃん」の語りにところどころ共鳴する部分もあるのだが、とはいえ、乗り切れない部分もあった。
この事件に関して、著者の見ている部分と私自身が揺さぶられる部分がどこかずれているのが原因なのかもしれない。
多重人格とも見える「きーちゃん」は、何らかの象徴あるいは寓意であるのだろう。だが、それを凄惨な事件の被害者に重ねることが妥当であるのか。私には今一つしっくりこなかった。
本当にやまゆり園事件について考えるのであれば、私自身にとってはおそらく、ルポやノンフィクションにあたる方がより適切なのだろうと思う。
- 感想投稿日 : 2023年12月11日
- 読了日 : 2023年12月11日
- 本棚登録日 : 2023年12月11日
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