「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

著者 :
  • 河出書房新社 (2012年2月25日発売)
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2011.3.11以後のある東京在住の作家のつぶやき
もちろん、著者の高橋源一郎は「あの日」以前からツイッタ―を始めていました。でも、ラジオでのつぶやき(『午前0時の小説ラジオ』)は現代日本の作家では群を抜いて今日性にビビッドに関わっている彼ならではの試みで、小説や評論、エッセイの「ことば」とは別な何か、即興的な、その場その時の生もののようなものとして扱いたいゆえ、一冊の本としてまとめるつもりはなかったようです。
しかし、「あの日」にはツイッタ―というツールの利便性が突出しました。ただ繋がらんがための「ことば」ではなく、緊急の情報交換の手段としての言葉が必要とされたわけです。筆者は以前と同じように「ことば」を話すことも、書くこともできなくなったそうです。けれども、いつにも増して、たくさんの「ことば」を書いた、「あの日」の後で・・・その中心にツイッタ―での「つぶやき」があったわけです。
たしかに筆者の言うように、「どんな場所でも、人は、ことばを発することによってしか、理解し合うことはできない」と思いますが、ツイッタ―はあくまでも、アドホックに、機動性を持って情報交換する場であって、理解を深めるのは別の場所でというのが僕の考えです。信頼醸成のきっかけにはなると思うけど、相互理解を構築するのは無理だと思うからです。ツイッター自体がコミュニケーションの目的で、追いかけ合って、互いに確認、慰撫、トモダチの輪自慢であっても全然かまわないんですけど、公開「なう」の横行で、ホントは一人一人にリアルな生のカタチがあるはずなのに、「リア充」という規格化が進み、グラデーション無き棲み分けによって、その場その場のコミュニケーションが枯渇してしまうんじゃないかな。
それはともかく、本書には小説や評論やエッセイも収められています。それらはツイッターに「放流」した「ことば」によく似ていると筆者自身が書いています。僕は筆者の小説をこよなく愛読(フォロー?)してきましたが、そのスタイルからしてその作品と作者を切り離せないんですよね。だから震災以降の筆者のドタバタ、家庭生活、執筆状態、交友等、ツイッターで知ることができたことを改めて活字で追いながら、たとえそれが正確なドキュメントであろうとなかろうと同じ「ことば」で表現されている以上、フィクションであり、『恋する原発』と地続きなんだなと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: エッセイ
感想投稿日 : 2012年8月30日
読了日 : 2012年6月16日
本棚登録日 : 2012年8月30日

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