詩人・吉増剛造がみずからの詩作と詩的なるものの消息について語っている。
あの、か細く、静かな、少し震えを含んだ、やさしい声が聞こえてくるようだ。
同時に本書の語りは、そうやって語りながらも、つねに、「外」からの声に耳をそばだてているようでもある。
ハイデガーの言葉を借りて「杣道」と吉増剛造は言う。
きこりが歩く山道。そう、彼はどんどんと奥へ入って行こうとする人だ。でも果敢に、ではない。呼び声に導かれながら、いつのまにか「そこ」に立っている。
だから本書であらためて彼が歩んできた道程を杣道を彼自身たどりなおしながら、しかしそのつど、不図思い出すことから、また見たこともなかった杣道が見つかる。
そのようにして彼の詩(のようなもの)もどんどんと変化していく。原稿用紙が銅板やガラス板にかわり、書くことが、刺す、引っ掻く、線を引く、といった仕草へと流れていく。
ときには二重露光写真となり意味が光として溶け出す。
面白いのは、彼の語りはリニアではなくて、宙に浮かんでいる言葉や固有名を、唐突にひょいとひっつかんで目の前に差し出されたような驚きがある。
エミリ・ディキンソンが、カフカが、ヴァレリー・アファナシエフが、メシアンが、ジミヘンが、吉本隆明が、田村隆一が、石牟礼道子が、数えきれないくらいの人や物、概念が、ほんとうにすぐそこにいる(ある)ように感じられるから不思議な感じ。ぎょっともする。
吉増剛造は「雑」という字を好む。雑神、濁声、ノイズ。雑然となにかが満ちた空中から、例えばフランシス・ベーコンの絵画と、吉本隆明を蝶番として、三木成夫の内臓言語を取り出し、つないで見せるのだ。これはなかなかできる芸当ではない。
きっと彼が見ようと、幻視しようとしているものが、その先、にあるからだろう。それは、根源や、死や、外や、歪みや、奥や、ひょっとするとカオスと呼んでもいいかもしれない。
ともかくそれに呼ばれていくという不可能な使命をいやおうなく背負った詩人が、どうにかこうにか聞き届けた言葉たち。
それを仕方なく「形」として残したもの、それが一連の詩であり銅版画であり、原稿用紙にぎっしりと刺すようにして書かれた文字であるとわかる。
- 感想投稿日 : 2022年1月28日
- 読了日 : 2022年1月28日
- 本棚登録日 : 2022年1月28日
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