「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について

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  • 河出書房新社 (2012年2月25日発売)
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2011年3月11日以降、この年に高橋源一郎が書いたツイッター上の「ことば」と、この年に書いた小説、評論、エッセイ(ものによってはその書き出し部分)が編まれた本。3月11日からのあの年に、何を書こうとしたかを知ってもらいたいと思った、と書いてある。

2009年の暮れにツイッターを始めたという高橋は、ある晩「午前0時の小説ラジオ」という番組を始めた。午前0時から1時間近く、一つのテーマについて連続してツイートする。そうしてインターネットの「海」へ流れていった「ことば」について、高橋は、「街頭に立って、ギターを弾いたり、詩を朗読する人のようだった」(p.4)と書く。

▼多くの場合、街頭を歩く人は、ほとんど無関心で、その弾き手や、朗読者の横を通りすぎてゆく。それでいいのだ、と思った。生々しい「ことば」が飛び交い、直接、取り引きされる現場に、自分の「ことば」を置いてみること。それは、ずっと、ぼくがやりたかったことのような気がした。(p.4)

高橋はそれまで、ツイッター上の「ことば」を出版してみませんかという申し出を断ってきた。だが、このたびの本に出版するつもりのなかった「ことば」を載せようと思ったのは、「「あの日」の前と後で、なにが変わったのかを知りたいと思ったからだ」(p.7)という。

そんな高橋の「午前0時の小説ラジオ」で流された「ことば」の一節。

▼「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。(p.33、2011年3月21日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「祝辞」)

▼プラグマティズムは南北戦争の焦土の中から生まれた。「自分たちは正しい」という二つの主張のぶつかり合いが無数の死者を作り出した。だから、一群の人たちは、対立ではなく、自分の正しさを主張するのでもなく、世界を一歩でも良きものとする論理を生み出そうとしたのである。(p.132、2011年10月17日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「分断線」)

▼祝島は、みんなで手をつないで、ゆっくり「下りて」ゆく場所だ。「上がって」ゆく生き方だけではない、そんな生き方があったことを、ぼくたちは忘れていたのだ。それは、確実に待っている「死」に向って、威厳にみちた態度で歩むこと、といってもいい。(p.163、2011年12月12日の「午前0時の小説ラジオ」、テーマは「祝島」)

『We』が、"「こうあるべき」という正論を極力排して、「ゆらぎ」や「迷い」を大事に"誌面をつくっていきたい、と言ってるのと、なんか似てる気がした。

私はむかし、かなり「正しい」人だった。「正しい」ことを言いつのる人間だったな…という自覚がある。その「正しさ」で人との間がぷつっと切れたこともあるし、ぶったぎったこともある。いまもたまに(あ、自分は「正しい」ことにこだわっているかも)と思うことがある。私がなんで「正しさ」につかまるようになったのか、そこは自分でもよくわからないけど(親の影響もそれなりにある気はするが)、「正しさ」は気をつけないとこわいもんなんやと、あるとき気づけたことは、よかったなと思う。

私はいまのところツイッターをしてみようという気はないが、路上のギター弾きのような、というのはちょっとおもしろいなと思った。

(1/23了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 図書館で借りた
感想投稿日 : 2013年1月27日
読了日 : 2013年1月23日
本棚登録日 : 2013年1月23日

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