調査されるという迷惑: フィ-ルドに出る前に読んでおく本

  • みずのわ出版 (2008年4月8日発売)
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『季刊 福祉労働』の大野更紗さんインタビューの中でちらと出てきた本。宮本常一にこんな本あったっけ…と図書館でリクエストしたら、いつものようにヨソの図書館から相貸で本がきた。自分がリクエストする本はマイナーなんやな~と思うが、未来社の宮本常一著作集はずーっと入れてんねんから、こんな小さい本も入れてーなとつい思う(この本の一章に収められた宮本のテキストの底本は『著作集31巻』だという)。

この小さいブックレットは、第一章に宮本常一が書いた「調査される側の迷惑について、たくさんの例をあげながら指摘した文章」を置き、以後の章は、この本の共著者であるアンケイさんが、宮本の"調査地被害"という見方にふれて、自身の南の島でのフィールドワーク経験をあれこれと書いている。

私も、とくに大学にいた頃には、大きいのから小さいのまで「調査」に関わったことがある。「調査員」として、全く見ず知らずのお宅へピンポンと訪ねていったこともあれば(そして、調査を受けてもらえたことも、何やねんそれと追い返されたことも)、周到に準備を重ねてインタビュー調査にいったこともある。調査の準備や、調査データの扱い、分析、その還元ということは、それぞれの調査経験のなかで、まさに実地で学んだこともあるし、昔の自分の経験を思いだして(あれでよかったんかなー)と、今ももやもや思うこともある。

▼調査者は、それぞれテーマを持って調査するのは当然であるが、しかし相手を自分の方に向かせようとすることにのみ懸命にならないで、相手の立場に立って物を見、そして考えるべきではないかと思う。…
 …根ほり葉ほり聞くのはよい。だが何のために調べるのか、なぜそこが調べられるのか、調べた結果がどうなるのかは一切わからない。大勢でどやどやとやって来て、村の道をわがもの顔に歩き、無遠慮にものをたずねる。「そんなことを調べて何にするのだ」と聞いても「学問のためだ」というような答えだけがかえって来る。村人たちはその言葉を聞くと、そうかと思って協力したというが、「厄病神がはやく帰ってくれればよい」と思ったそうである。(pp.18-19、宮本)

同じところに、似たようなことを調べにくる者が、なんべんもなんべんも、やってくる。調べにくるほうは初めてで一度きりかもしれないが、来られるほうにしたらウンザリもするだろう。社会調査とか民俗調査ということだけでなくて、宮本のこの文章を読んでいて、私は病院や役所でたらいまわしにされて、なんべんも同じことをくりかえさせられた経験を思いだす。

医者にしたって役所にしたって、よく聞き出さねばわからないことがあるから聞くのだろうが、宮本が書いてるような「学問のためだ」的な対応もなくはない。そうなると、やはり学問の役に立つようなことは熱心に聞くが、そうでないことはてきとうにされている気がすることだってある。

何が研究されて、何が研究されないか、ということには、調査者や研究者の純粋な問題関心だけじゃなくて、とっととうまいこと結果が出そうとか、このことが分かればギョーカイでえらいと思われるようになるとか、そんなのも少なからずある(たとえば『金沢城のヒキガエル』は、そういうことをかいま見せてくれる)。

▼…よそから来て、わずかばかりの滞在で、村人同士のこまやかなかかわりあいの実情など知ることはできるはずがない。調査と調査に基づく計画というのは、このような微妙な問題をすべて切り捨てて行なわれるものである。
 なぜそういうことになるのか。調査というものは、調査しようとするものの意図がある。その意図にそって自分の知ろうとすることだけを明らかにしてゆけばよい、と考えている人が多い。…意外性[予定した以外のことから、重要な問題を引き出してくることもある]がもっと尊重されなければ本当のことはわからない。理論がさきにあって、事実はそれの裏付けにのみ利用されるのが本来の理論ではなく、理論は一つ一つの事象の中に内在しているはずである。
 しかし調査に名をかりつつ、実は自分の持つ理論の裏付けをするために資料をさがしている人が多いのである。このような調査の結果が利用されるなら、調査者たちの目のとどかぬ部分は、すべて切捨てにされてしまう。そういうものを認めようとはしないのだから…。(p.25、宮本)

これは、耳が痛い。自分も"資料さがし"をしてたんちゃうかと、振り返って身が縮む。見聞きしたもののなかで、何かをとりあえずカッコに入れておいて、それを補助線のようにして考えてみるということはある。でも、自分のアタマではうまく考えられなくて、結局は重箱の隅をつつくようなことをしていた気もして、昔を思いだすと、恥ずかしい。「理論は一つ一つの事象の中に内在している」という宮本のことばは、目の前にいる、そこにいる一人ひとりの存在のうちに人権はあるんやでという風にも聞こえる。

▼調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い。(p.34、宮本)

宮本の書いたことだけでなく、あとのアンケイさんの書いたところも、すごくおもしろかった。とくに4章の「フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴」。その章のおわりのところで、アンケイさんはこう書く。
▼フィールドでの濃いかかわりは、往々にして生涯をかけたものになります。お互いに相手の人生の物語の一部になるかもしれないという重い選択なのです。でも、誰しも体はひとつしかないし、人生は一回きり。とても、それだけの責任がとれない場合があることをよく自覚して、簡単には「濃いかかわり」の側に踏み切らないぞ、と自分に言い聞かせておくぐらいでちょうどいいのです。そうやって「学問と地域への正直さのバランス」をとる努力をしてほしいというのが、これから…濃い関わりを余儀なくされる場所でのフィールド・ワークをめざすかもしれないあなたへの助言です。(p.86)

アンケイさんのサイトは、なんかおもしろそうなので、またちょっとずつ読んでみようと思う。
http://ankei.jp/

(8/16了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 図書館で借りた
感想投稿日 : 2012年9月6日
読了日 : 2012年8月16日
本棚登録日 : 2012年8月16日

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