『銀河鉄道の夜』をゆっくり読むならこの本と決めていて、やっと購入。
美しい!!
清川さんのアートが本書の世界観にぴったりで、奥行きを増していた。
既に所持している『幸せな王子』より、こちらの方がもっとずっと綺麗だった。
本当に素敵。
作品ページも数が多くて、大人も子供も楽しめる。
作中、「天気輪の柱」とは賢治の造語とのこと。
私は太陽柱のようなものを想像した。
ただ、このシーンは夜。
月に虹色の暈が(太陽で見られるように)かかって、そこから柱のように光が降りてきているのかしら?
不思議な光景だ。
その「天気輪の柱」が、ジョバンニを「銀河ステーション」へと導く。
体調が思わしくない母を思う気持ち、戻ってこない父親、学校に通いながらこなす仕事、同級生の意地悪…それらの言いようもない悲しみや、
「ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たい」
という願いが、ジョバンニをこのような世界に引き込んだのかもしれない。
あるいは、ジョバンニを気にしていたカンパネルラも。
双方の思いが、銀河鉄道を引き寄せたのかもしれない。
北十字(はくちょう座)のシーンのあと、然り気無く挿入されている「鳥を捕る人」のシーン。
銀河鉄道に乗車してくるということは、この人もまた命を落としているのだろう。
だが、なんだか唐突だ。
「茶色の少しぼろぼろの外套を着て、……赤髭の背中の屈んだ人でした。」
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥を捕まえる商売でね」
ネットで星座図鑑を画像検索した。
夏の大三角形(はくちょう座・わし座・こと座)を横切るように、小ぎつね座があった。
星座絵図では、狐が鳥(ガチョウ)を咥えている。
このことから、鳥を捕る人=小ぎつね座を擬人化したのでは?という説があるようだ。
こんな文章がある。
「鳥捕りは二十匹ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲玉に当たって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、かえって、「ああせいせいした。どうも体に丁度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな。」」
そして、見るともう銀河鉄道の車両内に戻ってきている。
そのことから、"鳥を捕る人=小ぎつね座の擬人化"と考えるなら、この場面もしっくりくると思えてきた。
小ぎつねが川で鳥を捕っている時に、猟銃で打たれて命を落としたように思えたからだ。
そして「ああせいせいした。どうも体に……」の台詞。
地球上の生態系を守るのなら、むやみに捕りすぎることなく、体に合う分(食べる分)だけ捕るのが良いと説いているように思える。
次に現れる車掌のシーン。
カンパネルラとジョバンニはそれぞれ違う切符を持っている。
カンパネルラは「小さな鼠色の切符」。
ジョバンニは「はがきぐらいの大きさの緑色の紙」。
ジョバンニの持つ緑色の紙は、"三次元からやってきた者が持っている切符"であるらしいこと、
"不完全な幻想第四次の銀河鉄道では、どこにでも行ける切符"であることが分かる。
ジョバンニだけはどこまでも行くことができ、また三次元へと戻ることが出来る、との暗示だろうか。
"鳥を捕る人"が言っていた"幻想第四次"。
ジョバンニも、これが幻想であることを薄々感づいているように思える。
と言うよりは、いつかお別れすること、或いは別れが近いことを感じ取っていたのかもしれない。
急に悲しくなったり、ここからは降りて遊んでいこうと言いたくなったりしている。
ジョバンニは、川へ落ちてしまったカンパネルラとの最後のひとときを銀河鉄道で過ごすのだ。
作中に登場する、鶴や孔雀、インディアンも皆、天の川を取り囲むように位置している星座だ。
蠍が赤く燃えているのは、きっと、蠍座の一等星アンタレスが赤く輝いている星だからだろう。
銀河ステーションを出発した銀河鉄道は、はくちょう座を通り、わし座(鷲の停車場)を通り、インディアン座や蠍座を抜けてサウザンクロス(南十字星)へと向かっている。
ちなみに双子座の隣にケンタウルス座があり、そばにはクリスマスツリー星団も実在していた。
旅の途中、「本当の幸い」「一番の幸い」という言葉が何度も登場する。
賢治の思う本当の幸いとは何だろうか。。。
タイタニック号の沈没事故で命を落としたと思われる青年と姉弟が登場するシーン。
燈台守は言う。
「何が幸せか分からないです。本当にどんな辛いことでもそれが正しい道を進む中での出来事なら峠の上りも下りもみんな本当の幸福に近付く一足ずつですから。」
すると青年も答える。
「ああそうです。ただ一番の幸いに至るために色々の悲しみもみんな思し召しです。」
"賢治の本当の幸い"とは、たとえ命を落とそうと、誰かのためになるのなら…という自己犠牲の心こそが「本当の幸い」であり、それを貫いたものは救われるのだという意味なのだろうか。
彼らの裸足だった足には、いつしか白い柔らかな靴が履かされている。
では、現代を生きる私達にとっての「本当の幸い」とは何だろう。
自己犠牲であるとは言い切れない。
けれど世の中が変わっても、各々の立場や年齢によって、普遍に問われ続けることだろう。
もしかしたら賢治も、読者それぞれがずっと考え続け、ひいては作品自体が普遍的なものへとなってゆくのを望んだのかもしれない。
「……僕はもうあのさそりのように本当にみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「けれども本当の幸いは一体何だろう。」
「僕もうあんな大きな暗の中だって怖くない。きっとみんな本当の幸いを探しに行く。どこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
- 感想投稿日 : 2023年12月22日
- 読了日 : 2023年12月22日
- 本棚登録日 : 2023年12月22日
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