「アラブの心臓」に何が起きているのか――現代中東の実像

  • 岩波書店 (2014年12月19日発売)
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本書は、混迷を極めるアラブ社会の今をレポートしたものである。
タイトル「アラブの心臓」とはイデオロギー色が強く、野心的で、なおかつ今では時代錯誤な概念である。

1950〜1960年代にかけて、革命を成就させたエジプト・シリア・イラクといった国々の為政者や政治組織が自らを「アラブの盟主」と自負する際に好んで用いた言葉。
この「アラブの心臓」文明の十字路として、古代から現代に至る歴史の中で間断なく登場すし、各時代の政治や文化において先駆的な役割を担ってきた。
中世以降は、十字軍遠征、モンゴル帝国の侵攻によって衰退し、その後オスマン帝国の興隆によって、その先駆的存在を再び顕現した。
欧州列強の進出によって近代化(官僚機構・近代軍・国民教育などに代表される)への道を進むようになる。
当時の有識者たちは、西洋近代に対峙するアイディンティティを探求する中で、自らの社会の衰退をいかに克服し、繁栄を享受するかに思いをめぐらせた。
彼らはアラビア語を母国語とするアラブ人の自我ないしはイスラーム教徒としての自我に目覚め、近代化との両立を目指した。
彼らの思索的営為は、ほどなくアラブ民族主義、イスラーム主義として結実することになるが、二つの思想潮流が興隆する主要な舞台になったのが、ほかならぬ「アラブの心臓」とりわけエジプト・シリア・レバノンだった。
イスラーム主義は、20世紀に入ると、政治的イスラームと呼ばれる段階を迎え、イスラーム教を範とした社会秩序の実現をめざしていった。
そのための手段として、大衆主義に依拠し、布教を通じた斬新的な変革を目指す穏健路線と、前衛集団の闘争(ジハード)を通じて国家転覆や社会の抜本的改革を目指す急進路線の二つの方法が提起された。
現在のイスラエル問題は、19世紀半ば以降の欧州における反ユダヤ主義のアンチテーゼとして興隆した「シオニズム」とイスラーム主義と相互排他的に対立することにより、際限ない紛争が繰り広げられることとなった。
「アラブの心臓」が抱える問題こそ、中東全体が抱えている政治問題・社会問題がもっとも先鋭的なかたちで発現しており、その実態を把握することこそが中東の今を理解する第一歩となる。

<エジプト>
2011年、エジプトでは「ジャスミン革命」と呼ばれるチュニジアの政変に続き、ムバラーク大統領の辞任を求める抗議デモが起こった。
自由・公正・民主主義などのスローガンを掲げる抗議でもはエジプト全体費広がり、最終的には軍の離反によってムバラーク大統領は辞任した。
ムバラーク政権下では、限定的な政治の自由化がしばしばみられたものの、権威主義的な政権運営が基調となった。
1990年代には、経済危機の対応のため、国際通貨基金との合意に基づき、構造調整政策を進めた。
補助金削減や国営企業民営化など経済改革の結果、生活悪化に伴う不満がエジプトに高まった。
市場主義経済政策が促進された結果、国民の政治的権利を制限するかわりに国家が国民生活を保証するという、ナセル大統領以来の国家・国民間の社会契約が放棄される事態となった。
国営企業払い下げや外貨の恩恵を受けた実業家や富裕層が出現する一方、生活苦に直面する者が増加した。
政権関係者の汚職・腐敗に対しても国民の不満が高まった。
2008年のリーマンショックは、外貨に依存するエジプトに深刻な影響を与えた。
GDP成長率も鈍化し、海外直接投資も減少し、パンや燃料など生活必需品の供給にも支障が生じる事態となり、各地で生活改善を求める抗議活動が頻発した。
デモは拡大し、タハリール広場には100万人もの人々が集まった。
ムバラーク大統領は鎮圧もデモ隊との対話にも失敗。
最終的には、最後の後ろ盾と期待した軍がムバラークを見限ったことにより、政権は崩壊した。
その後選挙によって大統領に選出されたムルスィーは、ムバーラク政権崩壊後に権力を掌握した軍最高評議会は対立を深め、わずか1年で政権の座を追われる。
エジプト軍は、多くの関連企業を有する経済活動を行い、軍事予算や人事への政治不介入といった既得権益があり、この構造を改革するのは非常に困難。
さらに世界最大の小麦輸入国であるエジプトの外貨不足は国内の価格高騰を招き、インフレ率が7〜8%という高水準で推移したため国民生活を直撃。失業率も12〜13%までになった。
こうしたムルスィー政権の無為無策が国民世論の失望へとつながった。
こうした中で登場したのがスィースィー。
軍を率い、事実上の軍事クーデターでムルスィーを政権の座から引き摺り落とした。
アンドリー・マンスールが一時的に暫定大統領となったが、軍を率いるスィースィーが権力を掌握する軍政となった。
その後選挙によって97%という圧倒的多数の得票によって勝利したスィースィーは、大統領に就任。
名実共にエジプトの頂点に立った。
民衆の自由・公正・民主主義といったデモのプラカードがスィースィーという権力者を生み出したことは、歴史の皮肉なのか、それとも軍政でなければ国家を統合できないエジプトという国の特色なのかを考える上でも今後の動向には注目したい。

<シリア>
2011年以降のシリア紛争によってアサド政権の崩壊は時間の問題であり、大統領退任は既定路線だと考えられていた。
にも関わらず、2014年6月の大統領選挙でアサド大統領は再選(三選)を果たした。
理由のひとつとして、アサド政権打倒を公言している諸国にとってさえ、アサド政権は一定の利用価値があるとみられていることにある。
東アラブ地域の安全保障の管理をシリアに外注する一方、アサド政権の非民主的統治を黙認してきた。
もうひとつの理由として、アサド政権の国内政策にある。
アサド政権は、アラブ民族主義を掲げ、さまざまな社会の亀裂を克服。
様々な社会集団に利害調整の網を張り巡らせ、それぞれに政治的権益を配分することによって、政権の正当性のよりどころとした。
現在、シリア国内の大きな問題のひとつとして、イスラーム過激派の台頭が挙げられる。
シリア国内に起源をもつ武装集団、とくに世俗的な思想・目標を掲げる武装集団が武装闘争を担う事ができなかったことにより、外来の思想や行動様式に依拠するイスラーム過激派が台頭した。
国内の自由シリア軍とは、数十名単位の士官、兵士が逃亡し、一部が反体制武装闘争に合流した程度で、各地の武装集団が自らの活動を正当化するための看板として自由シリア軍の名を冠していたに過ぎなかった。
組織的な基盤を持たないため、指揮系統や規律、兵站経路や資源の調達先を確立しているわけではなかった。
自由シリア軍に比べ、イスラーム過激派は、アフガニスタン・チェチェン・イラク・リビアなどでジハードに参加し、戦闘や組織運営に必要な経験を積んだ者がおり、戦闘に強かったことが挙げられる。
さらに、イスラーム国が国内に支配領域を広げ、混迷は深まっている。
イスラーム国のネットワークは、中東だけにとどまらず、今や欧州・米国などにも広がっている。
先進諸国の中に、イスラーム国の資源調達ネットワークが確立してしまっている現在、この問題に対してどのような対策を行うかが、大きな課題だ。

<イラク>
2014年6月、イラク北部に位置する第二の都市モスルが、イスラーム国の襲撃を受け、翌日に陥落した。
モスルには、数万人規模のイラク軍が駐留していたにも関わらず、数千人規模のイスラーム国の急襲によって24時間足らずの間になす術も無く崩れ去り離散、陥落した。
領域内において排他的な主権を行使する近代国家において、武装集団が国家内国家を建設したという点で世界中に衝撃をもたらした。
イラク国内に基盤を持たないイスラーム国が短期間にモスルを陥落させることができたのは、イラク国内を熟知する旧バアス党の幹部や元士官と連合していたからである。
もともとイラクは領域支配の正当性をいかに国家領域の中に定着させるかとういうのが課題だった。
歴代のイラク政権は、アラブ人・クルド人・トルクメン人といった多民族・多宗派国家をどのように統合するかに苦心してきたのである。
こうした国家統合を支えたのが、肥大化した官僚制とバアス党の監視網による強権的な支配だった。
石油生産がもたらした巨額の国家予算を用いて82万の国民を公務員として雇いあげた。
労働人口の15%が公務員という驚異的な割合である。
バアス党はアラブ民族指導部とイラク地域指導部を頂点とした強いヒエラルキー構造を持ち、社会の末端まで根を張るよう設計された。
市民の生活を日常的に動員・監視する装置として機能したのである。
バアス党は、2003年のイラク戦争で打倒され、かわって政権を担うようになったのは旧体制下で反体制活動を展開してきた亡命勢力だった。
連合国暫定当局(CPA)は政権を担うと、脱バアス党政策を実施し、党幹部を行政と社会の責任ある立場から解任する公職追放を強行した。
続いて行われた軍の解体は、35万人の失業者をうみだし、警察の解体とあわせると60万人を超える人々が職を失った。
こうした公職を追われた人々が、シリアかヨルダンに亡命するか、反米闘争、反体制闘争に加担するようになっていった。
2003年以前にイラクを論じる際に多用された社会階層や部族、地縁などは、戦後のイラク政治においては、政治や資源を管理・分配する権限や政治ポストなどの国家資源をいかに独占するかをめぐる競合の場としてイラク政治を捉える視点が必要になった。
公職追放されたバアス党の幹部や軍の将校らは、自らの復権のために、制度外で暴力を用いた異議申し立てを繰り返して来た。
制度内政治参加を制限されているがゆえ、イスラーム国などの武装集団と連携してでも国家資源の獲得をめざすようになったのである。
イラクにおける最大の問題は、この制度外暴力で政治闘争を続ける勢力を制度内に取り込めるかどうかにかかっているという。
現アバディー政権は、国内融和に務めているようだが、予断を許さない状況は今も続いている。

<レバノン>
報道を通じて耳に入ってくるレバノンは、戦争、紛争、テロ、難民といった政情不安に関するものばかりである。
よく知られているのはレバノン内戦(1975〜1990)。
レバノンは周辺国からの影響を受ける事で、幾度となく平和が損なわれてきた。そうした紛争の代表格がパレスチナ問題。
22年もの間、国土の1割以上が、イスラエル占領下に置かれ続け、今日まで五度の侵攻を受けている。
このように内戦と外寇の歴史が繰り返されたため、現在は異なる宗派の共存を目指した議会制民主主義を採用している。
議席も人口比に基づき、各宗派によって割り当てられる。
いずれの宗派も単独で過半数を形成することができないため、合議による合意形成が重んじられている。
レバノンを論じる際に切り離せないのがシリアの存在である。
15年にも及ぶ内戦を終結させたのは、国連に承認された平和維持軍として派兵されたシリアであった。
内戦終結後、シリアは地域に根ざした政党・政治家の間の利害調整を担ったため、レバノンのさまざまな政党・政治家がシリアとの関係を利用することで自らの政治的発言や影響力を拡大しようとした。
しかし、シリア内戦によってこの実効的支配は終焉する。
権力の空白は、諸外国によるレバノンへの関与・干渉をも助長し、新シリア派と反シリア派の対立を一層激化させることになった。
中東の小国レバノンは、近隣諸国の干渉や国際政治の動向に翻弄されてきた歴史があるため、現在は国内対立などの問題に対し試行錯誤を繰り返しながら流動的政治の荒波を乗り切ろうとしている。

中東における問題のすべてを欧米諸国に帰するような主張には留保が必要であるものの、パレスチナ問題は、欧州各地で興隆した負の遺産である反ユダヤ主義、ポグロム、ホロコーストといった排外主義の弊害を自らの国家・社会において解決するのではなく、シオニズムを介して「アラブの心臓」に移植したことにある。
シリアやイラクの混沌はこうした押しつけの21世紀版だと言っていい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 外交
感想投稿日 : 2015年4月19日
読了日 : 2015年4月19日
本棚登録日 : 2015年4月19日

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