生き延びるためのラカン (ちくま文庫 さ 29-3)

著者 :
  • 筑摩書房 (2012年2月8日発売)
3.67
  • (29)
  • (56)
  • (46)
  • (6)
  • (6)
本棚登録 : 862
感想 : 66

《この本は、言葉と心の関係についての話からはじまった。つまり、心は言葉でできていて、そのために途方もない自由さを得たけれども、同時に果てしない空虚さをも抱え込んだ、ということだ。》(p.20)

《彼女は言ってみれば、言葉によって治療を受けたはじめての患者なんだね。アンナ嬢自身がこの治療を「お話療法」とか「煙突掃除」と命名した。そういう機知と行動力に富んでいた彼女の本名は、ベルタ・ハッペンハイムという。彼女はのちに孤児院の院長をつとめたり、フェミニズム活動家としてたくさんの著作をのこした。》(p.148)

《さらにラカンは、ヒステリーは神経症の一種で、ちょうど強迫神経症と対になっている、とも考えた。それというのも、ラカンは神経症を「問いの構造」として説明しようとしていたからだ。つまり、ある形式の問いを発し続ける主体を神経症と呼ぶ、という具合に考えたんだ。そのとき強迫神経症は「自分が存在しているかどうか」、言い換えるなら「自分は生きているのか死んでいるのか」という問いかけをする主体ということになる。》(p.152)

《ではヒステリーは何を問いかけているんだろうか。ラカンは言う。それは性をめぐる問いかけなのだ、と。つまりヒステリー者が問うのは「自分は男なのか女なのか」「女とは何か」という問いかけなのだ。そしてこの問いのかたちは、患者の性別とは関係ない。》(p.153)

《「性別への問いかけ」を、僕なりに翻案するなら、それは「関係性」への問いかけということになる。性、いわゆる「ジェンダー」なるものは、関係性の中にしか存在しないと僕は考える。だからここでは、「存在への問いかけ」と「関係への問いかけ」が対になっていると考えるべきなのだ。さらに極論するなら、あらゆる関係性は性的な関係性じゃないだろうか。僕にはそう思われてしかたがない。そしてヒステリーの存在こそは、いつの時代も社会制度や学問の枠組みを逸脱し、「性」すなわち「関係」を通じて、挑発を続ける存在だった、とも考えられる。》(p.153-154)

《象徴界において男性は、ファルスを中心として「男はこれで全部」というような、閉じた集合をつくっている。ところが女性の場合は「これで全部」という具合には閉じていない。したがって「女性一般」なるものは存在しないことになる。これをラカンは「女は存在しない」と表現するわけだ。》(p.159)

《男性の享楽、つまり「主体の立場」を定めたうえでの享楽こそが「ファルス的な享楽」なんだ。これに対して、「主体の立場」を完全に抹消してはじめて可能になる享楽こそが「他者の享楽」じゃあないだろうか。》(p.168)

《必ずしもイコールではない「こころ」と「言動」を結ぶもの、それが言葉=隠喩であること。言動はこころの動きをそのまま反映するというよりは、こころを象徴する形で表出される。そしてこのとき、まさにこの象徴という形式が、言葉によって与えられてもいるんだね。》(p.201)

《ここで述べたような「愛の生物学」は、徹底して還元主義的だ。そこでは、どんな愛も、脳や遺伝子という、物質的な基盤に還元されて語られてしまう。そういう説明は、たぶん「男性が女性を好きである」理由については、もっともらしいことを雄弁に語ってくれるだろう。しかし残念ながら「ぼくがきみを好きなこと」の理由を知る手がかりには、ぜんぜんまったく、なりはしない。科学は、再現性のある現象の解釈や予測には圧倒的に強いけれど、この世で一回しか起こらないような現象の分析には、てんで役に立たないんだ。》(p.215-216)

《そして「愛」という現象は、常にすでに、一回性のものでしかありえないんだね。》(p.216)

《複数の人が関係を持つこと。そして、その関係性の中で、能動的と思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったことに気づかされること。たとえばそういう瞬間に、確かに転移が起こっていると言うことができるんだね。》(p.235)

《いま精神分析を語ることに意味があるとすれば、それは第一に「こころと情報は対立する」ということを、はっきりと主張するためだ。こころは情報化できないし、メディア論では語れない。そして僕らはこころを持ち、言葉を語り、転移によって関係を持つことができる存在なのだ。》(p.248)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年6月5日
読了日 : 2021年6月5日
本棚登録日 : 2021年5月21日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする