正統と異端 - ヨーロッパ精神の底流 (中公文庫 ほ 19-1)

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  • 中央公論新社 (2013年4月23日発売)
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堀米庸三『正統と異端』中公文庫,2013(初版1964年):中世ヨーロッパの秘蹟論争を中心に、正統と異端について論じたもの。キリスト教の法王・司教・司祭などがみな「聖職者」としてふさわしい人ならば問題はないのだが、中世には聖職売買や蓄妾など「瀆聖聖職者」が非常にたくさんいた。これらを一掃しようとしたのが、レオ9世にはじまり、グレゴリウス7世のときにピークをむかえる「グレゴリウス改革」である。「瀆聖聖職者」の問題はキリスト教公認前から存在した。要するにローマ帝国と妥協した聖職者をボイコットして、「瀆聖聖職者」の行った「洗礼」や「叙階」を無効とか呪いとか考えて、やり直すという話になってくる。この立場を「人功論」という。つまり、しかるべき人間に儀式をやってもらわないと効果がないと考える人々である。これに反対したのが、アウグスティヌスらで、しかるべき手続きを踏めば、誰がやろうと効力があるとする「事功論」の立場である。カトリック教会はドナティスト論争などをへて「事功論」を正統とするのだが、グレゴリウス改革を推し進めた人々は「人功論」の立場をとって、腐敗聖職者の綱紀を粛正した。まずいことに、民衆にも聖職者の腐敗をアジテーションしたため、都市の発展とあいまって、「異端」が雨後の竹の子のようにでてくることになる。つまり、腐敗聖職者に儀式をしてもらっても効果がないなら、自分たちで儀式をするとか、自分たちこそ使徒のように生き、宣教をしようとする大まじめな人々がいっぱいでてきちゃったのである。マニ教の流れをくむ「カタリ派」やプロヴァンス語で聖書を訳していた「ヴァルド派」などが代表的である。このグレゴリウス改革の後始末をした人がイノケンティウス三世で、どうしても説得できないカタリ派には「十字軍」をだして弾圧し、「使徒的異端」に対応するために自らも「使徒的生活」をする托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)などが成立してくる。「中世的言論の自由」、つまり「説教の自由」の問題や、「教会の俗権からの自由」を制度化した「クリュニー会」など興味ぶかい話が多いが、「カノッサの恥辱」の経緯とか、当たり前のことは省いていて、他の本で復習しないと分からない。まあ、日本でも「ナマグサ坊主にお経あげてもらって成仏できるのか」とか「葬式ビジネスに死者への尊敬がかける点がある」とか思う人も多いんじゃないかと思う。宗教の周辺には、どうしても人徳論が作用してしまうのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2014年9月30日
読了日 : 2014年9月30日
本棚登録日 : 2014年9月30日

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