人生を半分降りる: 哲学的生き方のすすめ (新潮OH文庫 36)

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  • 新潮社 (2000年10月1日発売)
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人生におけるどうでもいい仕事から引退し、半隠遁生活を送ること、それが人生を半分降りることだ。自分は著書で述べられているこの生活の極めて少ない実践者の部類に入るであろう。

 平均的な会社勤務従事者、あるいは単に仕事をしているひとの私有時間と比べて自分がの私有時間はかなり多い。私有時間というのは不思議なもので同じものを見て体験するにしても、仕事をしているときにそれをするのとでは感じ方が全然違う。

 かつて銀行に勤めていたときに夏休みで1週間休暇を取っていてが、ある書類を届けるために職場に行ったことがある。一応、スーツは着ていたが心は完全に私有時間であり、書類を届けたらその足ですぐに遊びに行こうと思っていた。その気持ちで職場に行ったときには見る光景・印象にものすごい違和感があった。職場の同僚も、机も、お金も机もなにもかもが物質然としていた。行員という意味の途切れた関係で相対するものは初めて会う感じで、しかもその時に感じたことが本当のそのもの自体の意味を表していたのだろうと思う。

 囲碁で岡目八目といって、勝負の当事者という立場から離れて局面を見るといい手が浮かぶことがある。人生を仕事基準に捉えると、同じものが違って(たいてい本質を誤って)見える。私有時間の中に仕事時間を位置づけて世の中を見ると、すべてが仕事でなく、自分との関わり合いで見える。

  おそらく、仕事一辺倒で人生を生き、定年退職して世間を歩き、そこで初めて見えてくる本当の世の中を目の当たりにして愕然とするするひとは多いだろう。その光景をある程度人生に時間の余裕がある人なら受け入れ、そこに生きることは出来る。しかし、その本当の姿に恐れおののき、自分がずっと見逃していた人生の中の世の価値に直面することが出来ない人は再び仕事のくもりレンズを探すしかない。

 出家と言って、世俗を捨てて、寺に隠れ住む心の弱さは別にして、そうして初めて見えてくるものがあるであろうことは間違いない。しかし、仏法修行を通じて、私有時間を捨てるならばまた今度は違う曇りガラスをかけることになる。仕事や宗教に身を捧げることは、私有時間の放棄という意味で同一であり、ということは世の中の本来の姿をあるがままに見ることが出来ないことも意味する。

 小学校や幼稚園にあがるまえ、世の中が生まれたままの自分とだけの関係で再び見ることが出来るには私有時間を生きる時間の根本に据えるしかない。しかし、これが実際に出来る人は本当に極々一握りの人なのだろうと思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学
感想投稿日 : 2012年4月29日
読了日 : -
本棚登録日 : 2012年4月29日

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