日中戦争下の日本 (講談社選書メチエ)

著者 :
  • 講談社 (2007年7月11日発売)
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感想 : 5

・1930年代後半、「国内は貧困と恐怖で…」「軍部が独走して戦争が拡大し、一般国民は被害者…」というありがちなイメージを鮮やかに裏切る。日中戦争の社会的・政治的(not法的・政治的)責任を、「社会システムの不調」に見出している。「デモクラシーとしての大政翼賛会」という指摘は新鮮だった。
・参謀本部は対ソ戦優先方針から日中戦争拡大に反対。陸軍省は「一撃」で中国を倒し対ソ戦に備えるという範囲内で積極論をとる。柳条湖は関東軍の謀略だが、盧溝橋は偶発的事件。
・30年代後半の日本は戦時経済による景気拡大で、戦場からの帰還兵は戦場の緊張感と銃後の退廃のギャップに悩み、疎外感を感じる。
・戦場の兵士たちは現地で中国民衆への理解を深める。また一方、軍当局は文化人も動員して、中国民衆への経済開発を含む「文化工作」を進める。これが日本に逆輸入され、平準化を求める運動として「国民精神総動員運動」が国内で進む。促進者は蝋山政道。また戦争に協力した労働者や農民は社会大衆党を通して主張を強める。この過程で同党は階級政党から国民政党化、私益より公益を重視して国内体制の「全体主義」化、「革新」を進める。
・平沼内閣後の阿部・米内内閣では日中戦争解決が急がれたため「革新」機運が交代、民政党及び政友会の既成政党が復権。1940.2民政党斉藤孝夫の「反軍演説」は、単なる反軍ではなく領土や賠償金を取るべきという帝国主義的戦争観に立ち、「東亜新秩序」の建設という戦争目的を批判したもの。斉藤は議会から除名され、これを機に政策の方向は自由主義+国際協調から、全体主義+地域主義へ。各政党は分裂が深刻となり、同年10月の大政翼賛会へ。
・大政翼賛会は「上下心を一つにする」デモクラシーであった。この国内新体制は、・同じ全体主義の独伊と結ぶ、・三国同盟で軍部を満足させ国内を乗り切る、という意味で三国同盟という国際新体制と関連。しかし三国同盟は不調、国内でも大政翼賛会への無関心や既成政党派の存在により新体制は不調。
・汪兆銘政権を謀略した影佐禎昭・今井武夫はこれによる和平を目指したが、国内議会の現実主義派や現地軍の中下層の対中無理解により汪兆銘政権は頓挫。
・「自由主義」「帝国主義」「日本的日本人」を否定する京都学派は、社会の平準化による国内改革を目指し、「日本主義」に批判的。
・太平洋戦争開戦後の経済困窮に伴い農民・労働者の不満が増大、小作争議・労働運動を通して社会全体が下方平準化。
・当初東条内閣を支持していた国民も、極限状況の中で次第に離反。岡田啓介等旧体制勢力も東条打倒を目指し、1944.7内閣退陣。これで1920年代の旧体制勢力と国民とは、戦時下の対立から戦後の協調へと転換。戦後の幣原内閣は1920年代への回帰の象徴。社会の活気も復活。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本
感想投稿日 : 2011年12月10日
読了日 : 2008年1月10日
本棚登録日 : 2011年12月10日

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