プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫 白 209-3)

  • 岩波書店 (1989年1月17日発売)
3.73
  • (171)
  • (170)
  • (314)
  • (18)
  • (2)
本棚登録 : 4074
感想 : 200
5

略して「プロ倫」と呼ばれる、マックス・ヴェーバーのあまりにも有名な1920年の著作である。
非常に分厚い本だが、その半分以上は訳者解説と脚注・訳注で占められている。なので、本文自体はそれほどむやみに長いものではない。また、一度その論理を理解してしまえば、決して難解な本ではなく、書かれている内容は、今の時代から見てもとても筋が通っている。

ヴェーバーは、まず大商工企業を所有する資本家や経営者の中にプロテスタントの割合が非常に多いという事実について、そこにはそれだけの理由があるはずだというところから始める。プロテスタントの教義からくる思考様式や行動原理が、資本主義社会における信者の活動に影響を与えていたはずだ、と。しかしながら、その禁欲的な教義から、強欲さと自由さを旨とする資本主義に有利な特性が果たして生まれてくるのであろうか。ヴェーバーによると、まさしくその通りであり、プロテスタントの家庭や社会における教育によって得られた「精神的特性」が職業選択とその後の職業上の行動規範を決定しているというのである。

そして結論として、ヴェーバーは、逆説的だが「禁欲的で信仰熱心であることと、他方の資本主義的営利生活に携わることと、この両者は決して対立するものなどではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係にあると考えるべき」と言うのである。なぜか。

ここで大きな役割を果たすこととなったのが、いわゆるカルヴァンの「予定説」である。カソリック教会による免罪符の発行を批判する論理としても絶大な威力があった予定説だが、その内容は概略すると、崇高である神は人間の世俗の行いよってその決定を変えるようなことはしない、というものであった。これは、敬虔で信仰心が篤い信者にとって、あまりにも論理的であった。そのため、カルヴァン派の信徒は次のような苦悩を持つことになった。

「地上の生活のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、むしろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において、そうした教説(※予定説)を人びとはどんなにして堪え忍んでいったのだろうか。かならずや信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選ばれているのだろうか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関係を背後におしやってしまったにちがいない」

ここにおいて、カルヴァンは、善行を積めば救われるという論理から、自ら救われる人間であれば善行を行うことになるはずだ、と因果関係を逆転させるのである。

「誰もが自分が選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に義務づけることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果であり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ...こうして、ルッターが説いたような、悔い改めて信仰により神に依り頼むとき必ず恩恵が与えられる謙虚な罪人の代わりに、あの資本主義の英雄時代の鋼鉄のようなピュウリタン商人のうちに見られる、また個々の事例ならば今日でも見られるような、あの自己確信にみちた「聖徒」が錬成されてくることになる。いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだ。つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ」

なぜか。そこには、ルッターによる聖書の翻訳で使われた「Beruf」という訳語に含まれる「天職」という意味が重要であった。ドイツ語のBerufや英語に訳された場合のcallingが、原書にはなかった「天職」という意味を含みもつことになったのは、ルッターによる聖書の翻訳に由来しているという指摘は、どこまで真に影響力があったのかはおくとしても、歴史の偶然のひとつでもあり、もしそうであるならば非常に興味深い。

「労働を自己目的、すなわち>>Beruf<<「天職」と考えるべきだという、あの資本主義の要求にまさしく合致するところの考え方は、このような場合いちばん受け容れられやすく、伝統的慣習を克服する可能性も宗教的教育の結果最大となる」

天職が神から遣わされたものであるのであれば、それを全うすることが神の意に沿うことにもなる。予定説の下では、神の意なるものが世俗のものに対して影響することがあってはならないものではあるものの、天職を全うすることができるということが逆に自らが選ばれたものであるという確信を持つために強く希求されたのである。

「正当な利潤を>>Beruf<<「天職」として組織的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名付けるのは、近代資本主義的企業がこの信条のもっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由によるものだ」

このときまで、利潤の追求を倫理的によきこととするのは、過去のどんな道徳概念にもなかった。そのためには、儲けを得ることが目的ではなく、お金儲けという行動自体が目的となることが必要であった。金儲けが倫理的に奨励される社会である必要があった。インドでも中国でもなく西洋、とくにプロテスタントの国において資本主義が発展することとなった歴史的背景はまさにそこにあるというのだ。

「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職概念が作り出したものだったのだ」

さらには、必要であることを超えてより多く儲けることが、神の意志に沿う使命ともなった。その姿勢は資本主義社会における推進力ともいうべき資本蓄積に必要なものであった。

「財産が大きければ大きいほど ... 神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならないという責任感もますます重きを加える」

市場を通した利潤の追求による営利活動によって経済的発展が得られるという資本主義がどのように可能になったのか。決して贅沢をせず、それでいて富の追求を行う姿勢がどのように生まれたのか。どのようにして必要である以上に過剰な利潤と資本蓄積を追求することが正当化され、人をして突き動かしたのか。
ルッターの宗教改革がその道を拓いたことは確かだが、ルッター派にはなくカルヴィニズムおよびプロテスタントの諸集団(ゼクテ)にはあったもの、それが「予定説」であり、「予定説」が資本主義社会の発展の源泉としてあったのだというのが本書の重要な結論でもある。

ヴェーバーは最後に、こう総括する。
「プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に沿うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ」

もちろん、プロテスタンティズムの倫理だけが、他でもなく西洋において資本主義を発展させた原因だと言っているわけではない。しかしながら、ヴェーバーの論理は一本筋が通っており、謎解き本を読むような明快さが含まれていて心地よい。例えばフーコーが、『言葉と物』で時代を区切るエピステーメー、『狂気と歴史』で近代における狂気の排除、『監獄の誕生』で生権力の働き、などを解明するのと似た知的満足感を与えてくれる。

ヴェーバーは本書で解説されたプロテスタンティズムによる資本主義の発展について、「禁欲的節約強制による資本形成」と呼んだ。もしかしたら、他の誰かがそう類推しているのかもしれないが、戦後の日本の高度経済成長についても、「禁欲的節約強制による資本形成」とも呼ぶべき社会的力学が働いていたのかもしれないと想像してみることができるのではないだろうか。戦争で死ぬことなく生き延びたという感覚は、あの戦争での死者に対する罪悪感を持つことにもなったであろうし、救われるためには死者がそのように夢を見ていた日本の発展に尽くすとともに、もはや贅沢をすることが適わぬ死者への心理的な配慮から奢侈的な消費行動を圧殺することとなったのかもしれない。その倫理感覚と似たものとして、資本家だけでなく、地方からの集団就職で職に就いた多くの労働者がそこで就いた職業を自らの天職であるという感覚を持つことがあったのではないだろうか。その天職概念の相似がプロテスタント社会と同じく、日本社会の高度経済成長をもたらす一因でもあったのではないか。また、日本社会における終身雇用形態ができた理由のひとつには、天職概念とも言えるものが影響していなかっただろうか。
およそ根拠のない戯言のようなものなのかもしれないが、古典で言われたことを汎化して、別の状況においてもその論理を適用してみるというのは、社会学という学問においては、試行的に行われるべきことなのだろうと思うのだ。

大澤さんの『社会学史』を読んだことをきっかけとして、この本を読んでみたが、改めて社会学や哲学の古典に当たるのもよいなと思うことができた。
本の形について一言いうと、できれば、こんなに注釈を入れなくてもよいのではないか。おかげで読みづらい。でも、世の中には多くいるであろう(何より自分がその一人だった)興味はあるけど読んだことがないという人にはそれでもぜひ読んでほしい。本書の内容は、そんなに古びていないから。


----
本書を読んだのとほぼ同時期、日経ビジネスオンラインゼミナールに載った「「オレがオレが」が経営者の晩節を汚す」(2019年5月16日)という記事を読んだ。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19nv/00124/00016/
その主旨は、カルロス・ゴーン氏が、成功した経営者によくみられる私欲によって晩節を汚したことに対して、京セラ、第二電電(DDI)、JAL再生を成功に導いた卓越した経営者と呼ばれる稲盛和夫がなぜそのようにならなかったのかの原因をその講演の内容に見たものだ。一方、その主旨とは別に、そこに『プロ倫』で指摘されたプロテスタンティズムの論理と、図らずも強い相同性が見られたことに強い驚きを覚えた。

記事の元となる講演は、稲盛氏が2007年5月に東京証券取引所で登壇したものだ。そのときの演題は「なぜ経営に哲学が必要なのか」。記事では、稲盛氏は京セラの上場のときに得ることができたキャピタルゲインを受け取らなかった理由として次のように語ったと書かれている。

 「『半導体が勃興していくには、ある人間が必要だった。たまたまそれが「稲盛和夫」であっただけで、ほかの存在が「稲盛和夫」と同じ才能を持っていれば、その人が代行していてもよかったはずだ。 私が一介のサラリーマンであってもおかしくはない』
 つまり我々が生きている社会は、壮大なドラマだと思うのです。劇場です。その劇場で、たまたま私は京セラという会社をつくる役割を担い、京セラという会社の社長を演じることになった。ただし、それは『稲盛和夫』である必要はなく、そういう役割を演じられる人がいればよい。たまたま、私であっただけなのです。
 今日は主役を演じているけれど、明日の劇では別の人が主役を演じてもよい。にもかかわらず『オレが、オレが』と言っている。それこそが、自分のエゴが増大していく元になるように思うのです。
 自分の才能は、世のため人のため、社会のために使えといって、たまたま天が私という存在に与えたのです。その才能を自分のために使ったのでは、バチが当たります。エゴを増大させていっては身の破滅だと思った私は、それからエゴと闘う人生を歩いてきました」

ここに、プロテスタントが信じた「天職」の概念をそのまま見ることができるのではないか。
先の講演を稲盛氏は次のように締めたという。

 「私たちは心の中に、良心という自分とエゴという自分を同居させているのです。ピュアな真我と卑しい自我が同居しているのが、人間の心なのです。お釈迦さまは、人間とはスタボン(頑迷)で、少しでも手入れを怠ると欲にまみれると知っていますから、『足るを知りなさい』とおっしゃった。『オレがオレが』『もっともっと』と際限もない欲望を膨らませてはいけないのです」

稲盛氏は一時仏門に入ったことでも知られている。現世の欲に踊らされるのではなく、あえてそれを拒絶し、天より与えられた役割を全うする、という思いが、ビジネスの成功を結果として約束することとなった。稲盛氏は、盛和会という形で、その思想と成功を拡げていった。そこにはよい意味での宗教との相似を見ることができるのである。稲盛哲学と言われるものと、プロテスタンティズムとその双方の資本主義社会における成功の裏にある論理的相同性を見るに、マックス・ヴェバーの慧眼に眼が眩む思いがした。それとともに、社会学というものの面白さは、まさにこういうところにあるのだと感じたのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 哲学批評
感想投稿日 : 2019年5月6日
読了日 : 2019年4月20日
本棚登録日 : 2019年4月20日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする