オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪はわが身にあり

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  • PHP研究所 (2018年12月11日発売)
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2018年7月オウム真理教で死刑判決を受けた教団幹部に対する死刑が執行された。その死刑囚の中に本書で取り上げる井上嘉浩その人も含まれている。同じくオウム事件で同時に死刑執行された中川智正について書かれた『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』で、その著者が「彼の死刑執行という事実で中川という個体がこの世から消されてしまったことに対し、私は一抹の哀悼を感ずる」と書いたように、本書でも著者の門田は井上が死刑に処されることに対して、そうされるべきではなかったという思いを隠さない。特に一審では無期懲役の判決が出ていたことから、著者はその想いの正当性を見つけようとしているように見える。オウム死刑囚と深く交流を持った人は、その人に情を移し、そして惹かれると言ってもおそらくはそう問題ではない。かくいう自分も本書で描かれる井上の人生とその想いを知るにあたり、一定のレスペクトを抱いている。まずもって彼らは常に真摯なのである。彼らはその意味においてはすでに予め更生しているとも言える。

一方で著者は終始彼がこのような罪を犯してしまった原因を麻原個人に求め、純真な人間の道を私欲のために誤らせてしまったという筋で話を進める。「刑事事件を引き起こした罪びと、特に死刑囚には、憎しみと罵りの言葉が浴びせられる。当然だろう」と書きながらも、その内実を書き起こすことで井上に対する批判をどこかで和らげられることを望んでいる。少なくとも再審請求には賛成しており、一審通り無期懲役の判決をまた得られることを望んでいた。

しかしながら、麻原に騙されて可哀そうであったという見立ては、逆に彼にあまりにも失礼であり、もっとも不適切な言葉ですらあるだろう。例えば、次の言葉がその例だ。

「オウム事件が私に教えたのは、人は些細なきっかけから、死刑囚になりうるということであり、また、まじめで真摯な人柄でも、そんな闇に落ちていくことがある、という残酷な事実にほかならなかった」

自分は井上と直接話をしたわけではない。著者は何度も井上と話をしている。それでも、やはり、これでは井上のことをあまりにも世間の紋切り型で評価してしまっており、不適切であるように思われる。おそらくは彼の意図にも沿っていないのではないだろうか。まじめで真摯な人柄だからこそ、あのような人生の選択につながり、またその後の行動にもつながったのだ。本書では井上の手記や両親への取材などを通して、出家に至った経緯が詳しく書かれているが、それは「些細な」という形容詞を使って表現するべきではない。それを「些細なきっかけ」と呼ぶのは井上に対するレスペクトが不足している。あまりにも上から目線であり、人生に対する畏れにも欠けている。畏れに欠けているからこそ、次のように筆を滑らせてしまうのであろう。

「人間には、何があろうとも踏み外してはならない一線がある。いくら洗脳されようと、信じている人物にどう唆されようと、人の「命」を奪うことは絶対に許されない」

著者はこのように書くが、それが自明ではないからこそ、オウムの事件は起こったのだ。それが自明ではないことは、現在でもテロや戦争が起きることからもわかる。大規模な戦争が過去何度も行われて、人の「命」を奪うことがやるべきこととして指示され、多くの人間がそれに従い、さらに多くの周りの人間がそれに賛同してきた。それはそれほど遠い昔のことでも遠い彼方でのことではない。

畏れるべきは、井上のような若者がオウムのようなものに騙されたということではなく、もしそれが世間一般の評価からすると常識から離れたことであったとしても、「宗教」の論理で内側から見ると、論理的でかつ倫理的ですらあることがあるということである。もし麻原が真に最終解脱者<グル>であったのであれば、井上の行動は全く論理的である。最終解脱者に帰依しており、すべてが宗教的な試練として与えられるのであれば、その内容については内側からは否定されることはない。彼は「善悪の規準はグルの意思の一点にありました。そのためグルの意思に逆らうという発想がまずはありませんでした」と告白する。また、次のようにも自覚していもいる -「もし自分ができなくてもグルの意思の流れに逆らわず、自分のできるグルの意思をやればそれなりに取り返しがつくとの甘えもありました」。彼は聡明で、さらに言うと世間一般の多くの人々よりも倫理的であった。だからこそ、彼はそれをある種の甘えと自覚もできながらも、オウム真理教と麻原に真理と希望を求めたのだ。

「人の「命」を奪うことは絶対に許されない」などと言うことが、何かの解決になると考えているのであれば、オウムの事件から何かを学んだということにはならない。井上が「真実を語り、二度とこのような犯罪を起こさせないことが自分にできる被害者への最大の償い」と言うとき、その真意を著者が果たしてつかんでいるのだろうかと問うべきなのかもしれない。

井上の言葉を聞き、彼の書いた言葉を読み、それでもなお著者は自らを絶対の正しさの側に置き、井上氏の若き頃の判断を後付けで判断するのであれば、それはまじめと真摯さにかけた姿勢であるように感じられる。注目するべきは、井上氏の逮捕後の真摯さではなく、それが教団への入会から彼の「変わらない」真摯さであることだ。ある意味では彼は変わっていないのだ。

そうした井上に対して、一審の無期判決の中で井上にもっとも重く響いたのは、裁判官からの言葉の次の部分ではないだろうか。
「無期ですが、被告人に与えたのは、決して自由な日々でも、修行の日々や瞑想を送る日々でもありません。これからは、自分たちが犯した凶悪な犯行の被害者のことを、一日、一時、一秒たりとも忘れることなく、特に宗教に逃げ込むことなく、修行者ではなく、一人の人間として、いいですか、一人の人間としてですよ、自らの犯した滞在を真剣に畏れ、苦しみ、悩み、反省し、謝罪し、慰謝するように努めなければなりません」
これまですべてだと考えていた修行を、あらためて逃げと指摘をされたのである。しかも無期懲役を下した一審判決自体の内容を正当であり、公平に自らを裁いてくれたと感じている裁判官の言葉でもあるからである。

井上はその能力においても優秀であった。彼が弁が立ち、その人間的魅力も併せて多くの入信者を獲得したことや、麻原からもその能力がゆえに嫉妬されたのではないかということからもそれが伺える。真面目に修行に取り組み、空中浮揚も1メートルも飛べるようになったという。

井上が当初より捜査に協力的であったのは、そのころすでに麻原に対する信用を失いつつあったからでもなかったか。それでも、集団の中における序列と恐怖にも縛られていた。麻原に逆らうことは、それまで親の反対にも会いながらも自らを投じてきたものに対する否定でもあった。それでもなお、麻原彰晃がここまで井上の態度を掌握できた論理と実践について、知っておかなければならないことなのだと思う。その意味で井上が死刑となったことは、ある意味では残念なことでもあった。合掌。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション
感想投稿日 : 2019年10月13日
読了日 : 2019年8月27日
本棚登録日 : 2019年8月27日

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