働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」

著者 :
  • 三笠書房 (2009年4月2日発売)
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稲盛さんの京セラフィロソフィの中で、働き方のエッセンスを取りだしたもの、と言えばよいだろうか。この本自体はそれほど長いものではなく、また稲盛さんの本や教えを知っているものにとっては、その内容も新しいものではなく、一度は聞いたことがあるものも多いだろう。おそらくは、この本だけを読んだ場合、まさに昭和の働き方だと批判的に読む人も少なからずいるだろう。社員のやる気を搾取し、長時間労働を強いるものであり、終身雇用を前提とした古い考え方だ、と。いや、そうではないというのであれば、それはとりもなおさず、この考え方を社員に納得させるために、経営者の考え方と行動が問われる、ということになろうかと思う。

しかし別の見方をすると、改めてこの本を読み、社会学の古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でマックス・ヴェーバーによって主張された、資本主義の発展を可能にせしめた天職に奉じるプロテスタントの倫理精神と、京セラフィロソフィとの間の論理的な親和性を感じるのである。
以前『心。』を読んだときも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との強い類似性を見たとそのレビューで書いた(https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4763132431)。働き方を論じる本書は、さらによりストレートに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と京セラフィロソフィとの相似関係についてその正当性を確認することができるはずである。

本書で稲盛さんはまずこう宣言する。
「人間は、自らの心を高めるために働く ― 私はそう考えています」
決して、仕事の最終目的は、生活のためではなく、世の中のためだけでもない。仕事を通して自らが神に選ばれたことを証明するかのごとく仕事に取り組めということと同じではないか。それを支えるのがプロテスタントの教えなのか、フィロソフィの教えなのかという違いでしかない。

決して、好きなことを仕事にしなさい、や若いころは色々な仕事を経験しなさい、などとは言わない。
「自分の好きな仕事を求めるよりも、与えられた仕事を好きになることから始めよ」
と言い、そうすることで、
「なかば無理に自分に強いて始めたものが、やがて自分から積極的に取り組むほど好きになり、さらには好きとか嫌いとかという次元をはるかに越えて、意義さえ感じるようになっていったのです」

「仕事は仕事、自分は自分」ではなく「自分は仕事、仕事は自分」というくらいの不可分の状態を経験してみることが必要です。言ってみればブラック企業の心意気ですが、そういう状態に自ら進んでなるようになりなさいというのである。そして自ら燃える自然性の人間になれと説くのである。

さらに何とヴェーバーが資本主義の精神の鍵だと言った「天職」という言葉を、稲盛さんもまさに仕事がそうなるべきものとしてその言葉を使うのである。
「「天職」とは出会うものではなく、自らつくり出すものなのです」

稲盛さんは、この本の中でヴェーバーの出身国でもあるドイツの領事から次のような言葉を聞いたことを紹介している。おそらくこの領事はプロテスタントではなかっただろうか。
「労働の意義は、業績の追求のみにあるのではなく、個人の内的完成にこそある」

稲盛さんは次のように続ける。
「一方、人類に近代文明をもたらした西洋の社会には、キリスト教の思想に端を発した、「労働は苦役である」という考え方が基本にあります。聖書の冒頭にあるアダムとイブのエピソードを見ても、それは明らかです」
たしかにカソリックの国ではそうなのかもしれないし、カソリックで資本主義が発展できなかった理由がそこにあるのかもしれない。一方でプロテスタントの国では、ルターの聖書解釈によって導入された「天職」の概念によって、労働への献身こそが神の恩寵に預かることを確信させることとなったから資本主義が発展したのだというのが『プロ倫』の論理である。

それでは、なぜ自らの仕事を「天職」と思い込んで、深いレベルでのコミットメントを行う社員をメンバーとして持つことが、企業として成功することにつながるのだろうか。この本の中ではいくつかその理由が挙げられている。

「寝食を忘れるほどに強く思い続け、一日中、そのことばかりをひたすら繰り返し考え続けていくと、その思いは次第に「潜在意識」にまで浸透していきます」
常にそのことを考えることで、今風に言うとセレンディピティが起きることがある。それは偶然ではない。意識にのぼらないところでも感覚器官は多くのものを拾い、脳は意識よりも多くのタスクをこなしている。潜在意識に仕事を埋め込むことで、よいアイデアが浮かぶのは当然の理だ。それが、他社との違いになることも当然あるだろう。

また、その仕事を天職として、「誰にも負けない努力をする」ことを自らに課すべきだという。
このことは、たとえばいい服を買いたい、おいしいものを食べたい、老後の心配をなくしたい、といったものは動機ですらなくなることを意味する。なぜなら際限のない努力をするべきであり、それ自体が目標となることで、他社以上の成果を生み出すことができる。その論理はまさにヴェーバーが、二重予定説および天職概念によって信者が自ら進んで際限のない資本形成の努力を果たしたということと結果側からみると相似のものだと言ってもいい。

仕事に完璧を求める「完璧主義」もその論理に沿って考えるとしっくりとくる。無理だと思えるような高い目標を置いて努力すること、徹底して誰にも分らないような細部にこだわることが、京セラフィロソフィにおいては個人の内的完成につながり、18世紀のプロテスタントにとっては神に選ばれたという確信につながったのである。そして、その完璧主義は、その組織の成功にもつながっていくのである。

同じく「継続主義」についても、手を抜かない、諦めないというエートスを形成し、そのメンバーが所属する組織の発展を約束したことだろう。

最後に、「正しい考え方」として稲盛さんが挙げたものを並べてみる。教会に飾ってあっても違和感はない。
- つねに前向きで、建設的であること
- みんなと一緒に仕事をしようと考える協調性を持っていること
- 明るい思いを抱いていること
- 肯定的であること
- 善意に満ちていること
- 思いやりがあって、優しいこと
- 真面目で、正直で、謙虚で、努力家であること
- 利己的ではなく、強欲ではないこと
- 「足るを知る」心を持っていること
- 感謝の心を持っていること

世界において「正しい」考え方というものがあるのかはわからない。しかし、上記の考え方を軸に据えた経営をした結果として、小さなベンチャをグローバルな大企業とし、圧倒的不利な条件での規制産業への新規参入を成功させ、一度は破綻した航空会社を短期間で立て直したのである。

それを宗教という必要はない。フィロソフィの背後にある、半ば意図し、半ば意図しない『プロ倫』で示された論理の一致についてはとても興味があるのである。

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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4003420934
『心。』(稲盛和夫)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4763132431

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ビジネス
感想投稿日 : 2020年5月6日
読了日 : 2020年5月3日
本棚登録日 : 2020年5月3日

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