帝国憲法物語 日本人が捨ててしまった贈り物

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  • PHP研究所 (2015年5月1日発売)
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幕末・明治時代、維新の英雄をはじめ、すべての人々が追い求めたものがあった―。その名は「大日本帝国憲法」
■憲法は「国家権力を縛るためのもの」?!
■「人は殺してはいけません」~1648年のウエストファリア条約~
■「異教徒か否か」から「文明か非文明か」へ
■「半文明国」という烙印の末路、ポーランドとインドネシア
■歴史、文化、伝統を踏まえてこそ真の憲法。シュタインの国家学
■憲法に命を吹き込んだ皇室の存在とシュタインを超克する十七条憲法の精神
■憲法とは歴史であり、物語である。

憲政史家の倉山満先生による渾身の書。
坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、高杉晋作、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、井上毅、大隈重信etc.
多くの偉人・英雄たちが活躍した幕末・明治時代。
そんな時代にあって、「幕末明治の志士・元勲たちが命を懸け、多くの人々が切望し、上下一心となってついに勝ち取ったもの」がありました。
そしてそれは、明治人が勝ち取った“自主独立への「最強の武器」”だったのです。
その名は「大日本帝国憲法」-

■憲法は「国家権力を縛るためのもの」?!
一般には「憲法とは国家権力を縛るためのものである」という言われ方をします。
ですが、これは本当でしょうか?
本書で触れられているように、
・高杉晋作が結核に侵されてもなおイギリス留学を目指し、
・大久保利通が「独裁」の汚名、味方の血すら顧みず推し進め、
・伊藤博文が政権運営を投げうってまで調査のための長期外遊の旅に出航し、
・井上毅が体を壊してまで練り上げ、
・明治天皇が「親王危篤」の報に触れてもなお審議に出席なされた、
その理由が「国家権力を縛るため」では、いささか”不十分”な気がします。
 
では、なぜ維新の英雄たちがそこまでして「憲法」に心血を注いだのか―
 
それは憲法が国家経営の最高法であり、かつ国際秩序における“自主独立のための最強の武器”であったからに他ならないのではないでしょうか。
 
なぜ憲法が「自主独立のための最強の武器」となるのか?
そのワケは当時の”国際情勢”と深い関係があったようです。
 
■「人は殺してはいけません」~1648年のウエストファリア条約~
倉山満先生の別著「国際法で読み解く世界史の真実」(2016年。PHP新書)によれば、”人類史にとって最も重要な年号”として1648年のウエストファリア条約が挙げられるそうです。
 
なぜか。
それまでの西欧では、宗教の名のもと、異教徒、異端は「悪魔」化し、殲滅するまで戦い続けるのが常でした。
しかし、このウエストファリア条約に至ることで、やっと「宗教の違いはあれども、人は人なのだから、殺してはいけない」という価値観が定着したというのです。
  
■「異教徒か否か」から「文明か非文明か」へ
「宗教の違いを理由に人は殺してはならない」という価値観をもたらしたウエストファリア条約からはもう一つ現在に至る重要な「秩序」が生み出されます。
それが主権国家体制を基軸にした国際秩序、国際社会の確立です。
 
国内に対しては、国をまとめ上げる力(治安維持能力)を持ち、国外に対しては排他的支配を確立するだけの力(軍事力)、他国との条約を守る力(条約遵守能力)を持つ―
 
そんな「主権国家」同士が、一定のルール(=国際法という名の慣習)に基づきプレイヤーとして動く。
現在の「国際政治の姿」がこのとき確立されました。
 
この「国際法、国際社会の確立」をもって「めでたしめでたし」となればよいのですが、そうは問屋がおろしません。
では、主権国家すなわち「文明国」と認められない国(=非文明国)はどうなるのか?
 
非文明国に対しては「占有の法理」の名のもと、相も変わらず「殺そうが、蹂躙しようが何をしても構わない」という論理が生じていたのが、当時の“国際社会の姿”であったと言えます。
 
■「半文明国」という烙印の末路、ポーランドとインドネシア
このように西欧列強が互いに覇を競い合いながら、ヨーロッパの外へその勢力を拡大させていったのが、当時の国際情勢でした。
そして、列強の圧倒的軍事力を前に、当時の幕府は戦うことなく「半文明国」という烙印を受け入れます。
本書でも、冒頭、周辺諸国に国土を分割され、亡国の憂き目を見たポーランドのことが述べられておりますが、評論家の江崎道朗先生の著書である「コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾」(2012年。展転社)よると、1602年頃からオランダによって植民地化されたインドネシアはその激烈な搾取によって貧困に喘ぎ、十九世紀に至るころにはインドネシア人の平均寿命は35歳にまで低下したと言われているそうです。
 
確かに当時の幕府の実力では、列強に対してなす術はなかったのかもしれません。
ですが、経済評論家の上念司さんの著書である「経済で読み解く明治維新」(2016年。ベストセラーズ)で詳しく語られているとおり、江戸時代においても民間による経済システムは既に世界最高水準のものでした。
それが列強によって搾取されるとなれば、それこそインドネシアの二の舞になるのではないかという強烈な危機感が生じるのも想像に難くありません。
 
日本という国が地球上から消え、残された国民は搾取を強いられる-。
 
「名も実も失う」という強烈な危機感が明治維新の根本にあったのではないかと思えてなりません。
 
■歴史、文化、伝統を踏まえてこそ真の憲法。シュタインの国家学
本書「帝国憲法物語」でも伊藤博文がローレンツ・フォン・シュタインに師事し「憲法とは歴史である」というシュタインの言葉に触れて衝撃を受けたことが述べられています。
では実際のシュタイン博士の講義はどのようなものであったのか。
その内容は瀧井一博先生による編訳の「シュタイン国家学ノート」(2005年。信山社出版)で伺い知ることができます。
 
(以下引用)
「国家とはひとつの人格を形作る人間の団体である。したがってそれは、人格的存在を形成するのに必要なあらゆる要素をもっていなければならない。
国家の身体は土地ないし領土であり、人民はその魂である。しかしこれだけでは十分でない。
国家は自分自身の主人でなければならない。自分のなかの主格として、そして他者に帰属したり、その一部となったりしないように、国家は自我を主張しなければならない。
これが、国家の主権と呼ばれるものである。しかし意思なき主権はあり得ないのであって、主権国家は独自の意思をもたなければならない。
この意志を形作る機関が、君主であったり、大統領であったり、あるいは貴族階級であったりする。(万人がこの機関に属すると見なされるとしたら、それは無政府状態である)この意思は実行されなければならない。それを行う機関が、政府である。」

  
「憲制の発展は、それ自身の力でではなく、社会の発展による。そして社会の発展は、主として富の分配に基づいている。
異なった社会が全く同じ憲制をもつことはありえない。各々の社会はその発展の度合いと種類に応じた憲制を求めるものである。
憲制の歴史は、社会の現実の文明状態と齟齬をきたした実定的憲制がその社会との間で絶え間なき対立と衝突を繰り返し、そうすることで何がもたらされてきたかということをわれわれに教える。
したがって、憲制の真価は、その洗練度や規定の上等さによってではなく、民衆の発展の度合いによって測定されるものである。
社会の影響は憲制の形態に現れる。君主制、共和制、その他の国家の形式はいずれも、それらが置かれている社会の状態のなかにその由来を求めることが出来る。」

 
「意思には限りがない。しかし意思を実行する力には限りがある。
全個人の勢力の総計は、前述のことから結論付けられるように国家の勢力である。
しかしながらこの総計は現時点では限定されている。数学的にそうである。
しかし先行する時代の成し遂げてきたことは、次の時代にストックされており、現在なされていることは未来のための貯蓄である。
これは地上の諸勢力の-時間的限定なき諸勢力の、と言ってもよかろう-連合である。
そして今では万物は固有の歴史を有しており、これらの歴史の総計が行政の歴史である。
実際、そのなかには無尽蔵の勢力資源が含まれている。
かくして、限りある勢力の連合は、国家の生のなかで無限の勢力となると言ってよいだろう。
そして歴史を十分に知れば、無限の勢力を掌中にすることができるかもしれない。」

(引用終わり)
 
「歴史の総計が行政の歴史であり、そのなかに無尽蔵の勢力資源が含まれている。歴史を十分に知れば無限の勢力を掌中にすることができるかもしれない―。」
 
伊藤自身もこの言葉に大いに勇気づけられたのではないでしょうか。
シュタインの講義を受けたことで憲法制定(=条文)にとどまらない国家の全体的な政治構造改革の見取り図に対する機知を得た伊藤博文は「憲法は大体の事而巳に御座候故、左程心力を労する程の事も無之候」と記したそうです。
 
■憲法に命を吹き込んだ皇室の存在とシュタインを超克する十七条憲法の精神
シュタインの教えや伊藤博文、井上毅らの命がけの制定作業を経て、草案は出来上がり、明治天皇が皇室の祖先である神々に誓うことで「大日本帝国憲法」は”命”を吹き込まれ、制定されました。
ちなみに明治天皇は慶応四年の江戸城無血開城がなされた同日にも新政府の基本要領として「五箇条のご誓文」を発布されています。
 
この「五箇条のご誓文」の精神は、聖徳太子の十七条憲法の精神を受け継いだもので、第一条「万機公論に決すべし」は十七条憲法第一条「和を以て貴しと為す」を継承したものと言われています。
 
「日本人同士で争うな」「物事はよく話し合って決めよ」という意味で広く知られていますが、もうひとつの意味として「和」とは“わの国”、“やまとの国”、すなわち「日本」のことであり、「和を以て貴しと為す」とは「日本を貴びなさい」という意味なのだと倉山先生は指摘しています。
 
今回、前述の「シュタイン国家学ノート」を読み直して改めて気づかされたことがもう一つありました。
同書では「社会発展の初期段階においては「官職(アムト)」のようなものはなかった。」と論じられています。
それは「国家」が存在しなかったからであり、「宮廷」と呼ばれるような身分制の時代の君主の周囲には“単なる私的な家臣たち”が取り巻いていたに過ぎなかったと。
  
では一方、日本ではどうだったのか。
西欧諸外国の君主が国家の元首となり、その“私的に過ぎない家臣”がようやく公的な官僚となる遥か以前に、聖徳太子は「日本という国を貴びなさい」と論じていたのですから、その先見性には驚きを禁じ得ません。
 
■憲法とは歴史であり、物語である。
今まで見てきたように憲法が「国家権力を縛るもの」というだけではやはり説明がつかないのではないでしょうか。
 
そうではなく、憲法とは、日本が日本として国際社会で生きてゆくための国家経営の基本法であり、他国から侵略されないための自主独立を守るための最強の武器であるとみるのが適切である気がします。
 
何よりも大日本国帝国憲法は語られるべき物語を内包した憲法でした。それは日本の歴史、文化、伝統に根差した憲法だったからに他なりません。
   
では現在の日本国憲法はどうなのでしょうか?
日本の歴史、伝統に即したものだと言えるのでしょうか?そこに後世に伝えられるべき日本の歴史、文化、伝統は充分に備わっていると言えるのでしょうか?
 
一方で、現在取りざたされている政府与党の改憲案もそうです。
緊急事態条項や環境権を盛り込むことが議論されているようですが、それは本当に憲法に書き込むことがふさわしい内容なのでしょうか。
単なる「行政執行上の問題」なのであれば、法律で制定すれば十分なのではないでしょうか?
 
護憲派も改憲派も共に「憲法」を考える上で、今一度、「大日本帝国憲法」(=誇らしく強い我が国の憲法の意)を踏まえて考えてみてはいかがでしょうか。
 
幕末明治の志士たちが何を考え、何を思い、憲法にどんな思いを託していたのか。
是非、多くの方に知って頂きたいと思いました。
 
おススメです!

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 憲法
感想投稿日 : 2016年12月12日
読了日 : 2016年12月12日
本棚登録日 : 2016年12月12日

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scorpionsufomsgさんのコメント
2016/12/12

憲政史家の倉山満先生による渾身の書。
坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、高杉晋作、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、井上毅、大隈重信etc.
多くの偉人・英雄たちが活躍した幕末・明治時代。
そんな時代にあって、「幕末明治の志士・元勲たちが命を懸け、多くの人々が切望し、上下一心となってついに勝ち取ったもの」がありました。
そしてそれは、明治人が勝ち取った“自主独立への「最強の武器」”だったのです。
その名は「大日本帝国憲法」-

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