茶色の朝

  • 大月書店 (2003年12月8日発売)
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あらすじ。

俺、と、シャルリーはビストロでのんびりコーヒーを飲みながら喋る友人どうし。
彼らはそれぞれ、猫か犬を飼っている。
しかしある日、彼らは自分の飼っているペットを安楽死させる。

なぜなら、政府が「茶色い犬、または猫、でなければ飼ってはいけない」と決めたから。
茶色い犬や猫は素晴らしい。こんなにいい点がある。
そう言われて、彼らはなんだかすっきりしないけれど、政府がそういうなら……と、安楽死させる。

次に、政府の「茶色以外を禁じる」法律を批判していた新聞が発禁になる。
彼らは、仕方ないので、唯一許された「茶色新報」を読むようになる。
廃刊になった新聞社関連の本が、本屋や図書館から強制撤去される。
彼らは、言葉や単語に「茶色の」とつけて、話すようになる。
そして、政府に許された「茶色い」犬や猫を飼う。

ある日、シャルリーが逮捕される。
なぜなら、彼は、かつて茶色くない犬を飼っていたから。
それは、国家反逆罪だから。

「俺」は、シャルリーが捕まったと知って、眠れなくなる。
でも、と、自分に言い訳をする。

本当はあの時、抵抗すべきだった。
でもどうやって?
政府の動きはすばやかったし、仕事があるし、毎日忙しいし、ごたごたはごめんだし……

そして、眠れないでいる彼の家のドアがノックされる。
まだ、陽も昇っていない。
彼は思う。

そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。





茶色、というのはナチス党の初期の制服が茶色のシャツだったので、フランスの人にとっては、ナチスを連想させる色だそうです。
それは知らなかったけれど、この本を初めて読んだときに、この詩を思い出しました。

wikiから引用。
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

日本語訳[編集]彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

////////////////////////////////////////////////////
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
私はユダヤ人などではなかったから
////////////////////////////////////////////////////

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』は、ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーによる詩。



ナチス党は、正当な選挙を経て、独裁政権を築きました。
第一次世界大戦で負けたドイツは隣にソ連が誕生したり、賠償金などで貧乏になり、超インフレも起き、国民は考えることがうまく出来なくなっていき、不安になり、自分たちを導くつよい指導者を求めました。
ヒトラーは、この波に乗って、台頭しました。


この本のメッセージで、これは自分のことだ、と思った箇所を引用。
p45
「では、どうすればいいのか」と言われるかもしれません。
 現状の危険性を訴える議論にたいして、「現状はわかった。では、具体的にどうすればいいのか教えてほしい」という反応が返ってkるうことはよくありますが、そんなとき、私はいつも一抹の懸念を覚えます。仕事の性格も、生活の場所も、社会的責任の大きさもみなそれぞれ違う人びとに、それぞれが「どうすればいいか」を具体的に支持することは困難だ、というだけではありません。自分が「具体的にどうすればいいか」は、あくまで自分自身が考え、決定すべきことがらです。それさえも他者から指示してもらおうというのは、そこに、国や「お上」の方針に従うことをよしとするのと同型のメンタリティがあるのではないか、と感じられてならないのです。

…略…

 「茶色の朝」を迎えたくなければ、まず最初に私たちがなすべきこと――それはなにかと問われれば、”思考停止をやめること”(””内、本文では傍点)だと私なら考えます。なぜなら、私たち「ふつうの人びと」にとっての最大の問題は、これまで十分に見てきたとおり、社会のなかにファシズムや全体主義につうじる現象が現れたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらを”やり過ごしてしまう”ことにあるからです、
 やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、”それ以上考えないようにする”こと、つまりは思考を停止してしまうことにほかなりません。「茶色の朝」を迎えたくなければ、なによりもまずそれをやめること、つまり、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。
 思考停止をやめること、考えつづけること。このことは、じつは、意識を眠らされてでもいないかぎり、仕事や生活や社会的責任の違いを超えて、私たちのだれにとっても可能なことです。そして、勇気をもって発言し、行動することは、考えつづけることのうえにたってのみ可能なのです。」




作中で、彼は、「いま行くから」と、ノックされたドアに向かいます。
自分がどうなるか、薄々わかっているだろうに。


権力者の思想、発言弾圧は、始皇帝の焚書坑儒が最初なのかしら。と、もっと古い物があるのでは、と思うくらい、権力者は国民をいいように操りたいわけです。
知識を与えたくないわけです。
焚書坑儒は、儒教に従うものたちを生き埋めにし、書物を焼いた事件です。
書物は、知識や考えを伝える手段です。
近い時代のフィクションならブラッドベリの「華氏451度」でもいいです。
少し昔なら、日本の「治安維持法」の成立過程だっていいです。
治安維持法が国家総動員法につながっていったのは、祖父母、曽祖父母の代。そんな近い時代です。


怖いな、と思います。
怖いなと思うこの本を、怖いと思わない人がいるだろうと聞いたことも、怖いです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 政治
感想投稿日 : 2013年11月17日
読了日 : 2013年11月17日
本棚登録日 : 2013年11月17日

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