女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店 (2014年3月21日発売)
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感想 : 21
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京都の古書店で買ったと記憶しています。フェミニズムに関心があり、色々本を漁っていた中で見つけたものです。早速読了したのでレビューします。

堕胎や避妊といった性と生殖に関わる領域、そして女性の身体をタブー化する社会の眼差しを問題にし、「女のからだは誰のものか」を巡って男性中心主義社会と戦った「女の健康運動」。この本は、フェミニズムの潮流でありながらあまり知られていない「女の健康運動」について、主に第二波フェミニズムの時代(1960-80年代)を中心に紹介しつつ、今日の社会にどのような影響を及ぼしているか、また、現代においてどのような問題が未だ残されているかについて論じている本です。アメリカと日本、それぞれの女性たちが「からだ」について真剣に、大真面目に、切実に悩んだ軌跡が伺える書物です。私自身は男性のからだに生まれ落ちた身でありますが、ミニコミ誌を通じて悲痛に世間に訴える女性たちの生の声にとても心を揺さぶられ、共感さえ覚えるのを感じ、それぞれの問題について随分考えさせられました。また、「女の健康運動」が中心ではありますが、そこを軸にしてフェミニズム全体の様相もまた見えてくるように書かれているのもこの本のいいところです。「これだけあるのか!」とビックリするほどの様々なフェミニズム団体、「こんなすごい女性がいたのか!」と感嘆を漏らすほどに実に個性豊かなウーマンリブの闘志たちが本書には登場します。

私がこの本を通して非常に考えさせられたのは、とりわけ堕胎の問題ですね。プロチョイス(「女性のからだは女性のもの」という主体性を尊重し、中絶の権利を女性に認める)か、プロライフ(生命の尊重という点から、道徳的にも許されない中絶は法律でも禁じるべき)か。
私としては、プロライフの論理は分からなくもないんですよ。人にもよるかもしれませんが、感覚的に中絶はやはり「子殺し」ですね。ただの臓器、単なる肉片の切除とは違ってきます。生まれる前の子であっても「人を殺してしまったんだなぁ」という思いは多少なりとも湧いてくると思うし、その罪悪感はそれ自体、ある種素朴な、素直な感情だと思うんです。だからこそ、普通人が人を殺したら殺人罪に問われるというのに、胎児を殺しても殺人罪に問われないとは何事かと思うのも、決してメチャクチャな道理ではない。ただ、こういう考え方はやはり、道徳、そして宗教ととりわけ親和性が高いですね。何もプロテスタント原理主義者、モラル・マジョリティ、マザー・テレサ、生長の家に限らず、大体の宗教は「いのちの尊さ」を謳うので傾向としてプロライフに偏りますね。私も僧侶の身なので、真面目な坊さんほど堕胎問題に関してはプロライフだなぁと思わされることは多いです(「国政に訴えて堕胎罪を復活させよう」までいくゴリゴリの人は、私、まだ見たことがありませんが)。
ただ一方で、中絶はいいもんじゃない、多少なりとも罪悪感は覚えるというのを引き受けた上で、それはそれとしてあるけれども、やはり堕胎罪をはじめ、性と生殖に関わる法律は男性中心的に歪んでいると。あらゆる妊娠・出産・子育ての負担を現に一身に背負っているのはやはり常に女性であって、むしろ男性中心的な中絶の禁止のせいでどれだけの女性が差別され、虐げられていることかと。そういう話も非常に理解できます。
「基本的に中絶は禁止、妊娠したら必ず産めというのが堕胎罪、でも障害がある人間は産んではいけないというのが優生保護法、そして次世代を担う健全な労働力(障害のない赤ちゃん)を産むための母体保護が母子保護法だと私たちは考え、この3つの法律を女のからだ、人生を管理する「魔のトライアングル」と呼んでいる」(『阻止連ニュース』一二二号、四〜五頁、本書p.179)
リブに代表される女性たちの問題意識が非常に的確に、分かりやすく伝わってきます。翻って、プロライフ派の宗教者たちは「堕胎罪や優生保護法、母子保護法によって、いかに女性、そして障害者の人権までもが脅かされ、差別されているかを考えた時、人権を脅かしてでも、差別を温存してでも、人殺しとしての堕胎罪はあるべきだといえるのか?」という問いに、どう答えるでしょうかね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 新書
感想投稿日 : 2016年8月11日
読了日 : 2016年7月30日
本棚登録日 : 2016年2月11日

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