夢幻能のような小説である。
折口信夫『死者の書』、1939年に書かれた幻想小説だ。長くはないが濃密な、この異色の傑作を読むにあたっては、いくらかの知識を事前に仕入れておいた方が良い。これから書くことは所謂ネタバレだが、古代史に相当詳しい人でない限り、この予備知識によって謎解きの楽しみを奪われたと感じることはないと思うので、このまま書き進める。独力で折口の仕掛けに挑んでみたいと思う人は、ここで引き返されたい。
物語の舞台は奈良県葛城市、二上山(ふたかみやま)の麓にある当麻寺(たいまでら)である。七世紀に建立されたこの仏教寺院には、当麻曼荼羅(たいままんだら)と呼ばれる織物が保管されている。中将姫と呼ばれる藤原家ゆかりの女性が、蓮糸を用いて一夜で織り上げたという伝説のある織物だ。姫はこの功徳によって、生きながら極楽浄土へ召されたと伝承にある。
この中将姫が『死者の書』のヒロインである。難解な語り口のため挫折率が高いといわれる作品だが、「中将姫(藤原南家郎女)がいかにして当麻曼荼羅を織り上げたか」を幻想味たっぷりに描きだした、いわば架空の縁起物語であるという大筋を押さえておけば、幾重にも錯綜する語りの中で迷子になることはないだろう。
そしてもうひとつ、中将姫伝説と並んで、この作品には重要なモチーフがある。姫の誕生に先立つこと百年、天武天皇の子として生まれながら、謀反の罪で処刑され二上山に埋葬された、大津皇子(おおつのみこ)の悲劇がそれである。〈した した した〉という印象的な水滴の音とともに冒頭で目覚めるのは、大津皇子の魂だ。皇子の辞世の句とされる歌が万葉集に残されている。
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
折口の想像力は、中将姫と大津皇子というふたつの傑出した魂を、藤原一族の血と、二上山というパワースポットを媒介としてめぐり逢わせた。それは別の言い方をすれば、百年の時を越えて成就する、スピリチュアルな恋の記録だったかもしれない。
『死者の書』を読むにあたって知っておくべき最低限の予備知識は、このくらいだ。あとはただ、折口の魔術的な語りに身をゆだねていれば良い。古代人の魂魄が憑依したかのごとき、折口のほとばしる情念を感じとることができれば、それで良い。稀代の民俗学者にして歌人であった折口信夫が、自身の持てる全てを注ぎ込んだ作品。〈死〉を冠する題名とは裏腹に、これほど生き生きとした古代人の息吹が感じられる小説は、そうあるものではないのだから。
- 感想投稿日 : 2019年1月14日
- 読了日 : 2019年1月7日
- 本棚登録日 : 2018年12月27日
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