一朝の夢

著者 :
  • 文藝春秋 (2008年6月24日発売)
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感想 : 27
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六尺近くにもなる体を持ちながら、その性質はおとなしい同心・中根興三郎は、奉行所内で役人の名簿を作る閑職に就いていた。しかしそのお役目とは別に、彼が精魂を傾けるのが「朝顔作り」。彼は異なる品種をかけあわせ、この世に二つとない美しい朝顔を生み出すのを幸いとする男だったのだ。
しかし幼馴染の里恵の窮状を救うため、極上の一品を彼女に与えた所から、中根は幕閣の重鎮・井伊直弼暗殺計画の渦中に巻き込まれてゆく・・・。

息子が恐ろしい計画に加担する事を知った、中根の同僚の老同心。
かつての夫が中根を危機に陥れるのではないかと、恐れる里恵。
自己満足の材料としてしか朝顔を見ることができない豪商の鈴や。
ふらりと現れては共に酒を酌み交わす(中野は酒は飲めないが・・・)、さっぱりとした気性の浪人・三好貫一郎。
自分のための朝顔を作ってほしいと依頼してきた謎の茶人・宗観。

キーとなる人物が精緻に絡み合い、それぞれの謎をうまく使って物語は進められていきます。
宗観さまの正体は、まぁ早々にわかってしまうのですが、わかった後からだからこそ、この後に待ち受ける桜田門外の変の無常さ、それにかかわった人々の心の葛藤が際立ちます。
ストーリーに、大河ドラマのような大きな盛り上がりはないのですが、むしろこの淡々とした丁寧な進め方の方が、人の想いを飲み込んで、残酷に流れていく時のはかなさが感じられてよかったのかもしれません。
自分が植えた朝顔の子葉が、土をもたげて出てくるのを見て、「これが朝顔の赤子か」と小躍りして喜び、白地に浅黄色の斑点の入った時雨絞りが咲いたのを見て、可愛いな、と呟き目を細めた三好が、「相容れぬことも、また互いの正義のためなのだ。信念と言い換えてもいい。進むべき方向を間違えたのなら、修正をすべきだ」と、水戸藩士・関鉄太郎として桜田門外の変に挑む事となることが哀しい。
若き頃に華々しい活躍をしたにもかかわらず、同僚をかばった怪我がもとで末は閑職に。それでもお役目を怠らず務めあげて、息子が奉行所に入ることを「息子の名を、自ら名簿に記したさいは、なにやた胸が熱くなりましてな」と喜んだ同僚の老同心・村上が、息子の敵を取るためにすべてを失い、最後には中根の刀に倒れる運命を選択してしまった事が哀しい。
元妻である里恵を他人に凌辱させたあげくに自刃に追い込み、村上の息子が殺されるひきがねとなった矢田部耕造も、悪人とばかり思っていたのに、その胸の中に「認められたい」という鬱屈した思いが渦向いていて、結局は政局を動かすコマの一つとして使い捨てられた事が哀しい。
夢の花を望み、迷いを振りきり行った厳しい政策。その影響で命を狙われ、「時代がわしを必要とし、その時代がわしの死を望んでおるのなら、喜んで屍になろうぞ。だがわしを倒すことが終わりではないのだ。そこからがあらたな始まりなのだということを、よく覚えておくがいい」と暗殺計画を知りつつ逃げも隠れもしなかった宗観様が哀しい。
生身の人間の、生身の心を描きつつ、時代の波に飲まれていった彼らの悲しみをもまた描ききった良作です。
一生に一度だけ、懸命に育てた者にだけ、咲いてくれる夢の黄色花。
中根はその花を咲かせることができたけれど、三好や村上や宗観が、この世に生みだしたかった花は、彼らが咲かせたかった、それぞれの花は、どんな花だったのでしょうね。
ふと、そんな想いにとらわれてしまう一冊でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: か行
感想投稿日 : 2010年10月21日
読了日 : 2008年12月9日
本棚登録日 : 2010年10月21日

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