アリストテレス (講談社学術文庫)

著者 :
  • 講談社 (2004年5月11日発売)
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感想 : 13
4

○基本情報
読了期間︰2019年10月
著者など︰今道
ジャンル︰リベラルアーツ系
ページ数、時間︰厚めの文庫本。

○感想
目的:リベラルアーツ、がっつり系
アリストテレスの著作や考えを網羅的に紹介しており、(プラトンとソクラテスを多少理解していれば)前提知識がほとんどなくても理解できる。
アリストテレスの考えは後の世代の自然科学によって間違いが証明されたものも多々あるが、思考の枠組みとしては西洋哲学の根幹になっている部分が非常に多いと思われる。例えば、論理学・種と類、自然学(実態の観察とエイドス・ヒュレーの認識)、などはかなりの部分がそうではないか。
諸所の秩序を立てるもののの探求(形而上学や神学)、倫理学についても心を打たれるものがあったと思う。「死とは生物学的物に限らず、魂の堕落により滅することも同様に死といえる。勇敢は、人間の価値を決定するような倫理的危機において、あらゆる誘惑にも毅然として事故を失わない心の力。」

○まとめと引用
<アリストテレス>P52
・歴史の過程で幾度となく「再発見」されてきた。キケロやアウグスティヌス。そしてイスラームを経て、トマスアクナス。
・例えば天文学については、ガリレオに覆された。しかしながら記述のすべてが間違っていたわけでもない。15世紀当時は巨頭であったのも事実。
・アリストテレスは、先人の研究課程を叙述し、批評していく形をとった最初の学者ではないか。例えば、自然科学における先人タレスなど
・20世紀以降の現代、アリストテレスの詩学は最も注目を浴びた古典である。これは芸術に対する解釈を行った最初の本である。
 現代において、個人の内面形成・自己責任において人生を歩むうえで、科学に加えて芸術を、真実に加えて美を求める時代になったからであろう

・西周は、アリストテレスを、第一には論理学と結びつけて考えていた
・新渡戸稲造は武士道の中で、ニコマス倫理学的考えを披露している。国家は個人に先立つもの
・ソクラテスやプラトンは思想の文章化作を重視しなかったよう。
・アリストテレスは、リュケイオンでの講義内容など非常に多数を残す。入門的内容と専門的内容の両方
・キケロ「ホルテンシウス」

<アリストテレスの学問について>P108-134
・1.論理学 2.自然学 3.動物学 4.形而上学(第一哲学) 5.倫理学 6.芸術論
・言語とカテゴライズ。
 ・実体とは。アリストテレスは二つの意味で使っている。
一つは、カテゴリー論でも挙げられている、主語に対する述語となるような事象の性質や一般性を表すもの
もう一つは、観察される対象そのもの。それは観察者の解釈によって胃定義されるのでなく、そのもの自体が性質を有している、客体的なものである
・四原因論:質料因、形相因、起動因(作用起点・始点)、目的因(最終目的・終点)。特に後者三つは、プラトンのイデアに近い概念?
・可能態(Dynamis)と現実態(Energeia)。物質の変化において、その物質が持つポテンシャルと現実化。形相と質料
⇒変化する可能性のあるものが、現在の姿に変化している。それは、質料に対する形相のごとしである
・(P133-134に、アリストテレスの思想の根本がまとめてある)

<初期対話篇>P162
・アリストテレスはゾロアスター教やペルシャ思想を肯定的に見ていたと思われる
・イデア論の否定⊛イデア論はプラトンがパルメニデスの影響を受けて構築した論
 アリストテレスは、イデア論晩年の「数学的な数から独立した数を基にしたイデア」は理解不能なものとして退けている
・神の証明:美の直観を出発点とする、経験論からなる。美の形相、のような考え?

(哲学の勧め)キケロのホルテンティウスや、アウグスティヌスに影響を大きく与えている
・肉体の幸福な状態とは、立派なものにまとわれた状態ではなく、ただ素朴に健康的な身体を有することである。精神の幸福とは、各知識を活用できる正しき判断を有するような状態にあることである。
⇒ここで論じられている哲学は、人生観の確立といった一般向けのことを言っているように思われる
・「われわれ人間の内には、理性と知恵が内在しているということ以外に、至福なものはない。理性は我々の内に住む神」

<論理学>P185
・1.「カテゴリアイ(範疇論)」カテゴリー論を扱う
・2.「命題論」伝達が正しい形で行われるための文法
・3.「分析論」三段論法や帰納法、演繹法を扱う
・4.「トピカ」認められている通説についての考察。それ即ち弁証論
・5.「誤謬推論」
アリストテレスはプラトンと異なる方法で批判的に、ソクラテスを解釈・評価した
⇒彼は、ソクラテスは徳の本質を探究し、徳のある行為を列挙することで帰納法的に普遍的なものを規定しようとした。彼曰く、その行為は論理的な単位としての普遍者の構築であった。形相である
一方ソクラテスは、イデア論という別世界でありつつも実体論に乗っ取ってその存在を構築していた。

1.「カテゴリアイ」10のカテゴリー。カテゴリーとは述語。xはyである、という命題におけるY
カテゴリーとしての実体とは、主語に対する述語となるような事象の性質や一般性を表すもの。別のところでは、「第二実体」とよばれている
それに対して、観察される個別の物や事象そのものは、「第一実体」と呼ばれている。第二実体は、第一実体に内在している
⇒第二実体の中でも、「種」と「類」に分けて定義している。例えば、前者は人間、後者は動物といった範囲の違いである

2.「命題論」伝達が正しい形で行われるために命題を構築するための文法
・単なる文章と命題の差別。「命題は、そこにおいて真か偽かを語ることのできるものである」
・単純命題とは、「あるもの(A)について、あるもの(B)が帰属するか」。すなわち、主語Aは述語Bを内在するか。この判断だけである。複合的な命題もこの組み合わせである
・矛盾と否定に関する基礎的な定義。否定する命題の組とは、互いに同時に真であることはできない。矛盾する命題の組とは、互いに同時に真にはならない部分が存在する状態

3.「分析論」
(前半の書物)今日の一般的な論理学の基礎と同じ。全称肯定否定、特称肯定否定の四分と、三段論法。
(後半の書物)学問的検証は、(彼は違う言葉で説明するが)①公理、②定義、③仮説、から出発するものである。すなわち演繹的な考え方。帰納法についても同書で語られるが、大半はこれらの演繹法のことである

4.「トピカ」※⇒弁証法的議論を展開していくための、方法や規則の集大成
・対話や討論における、修辞学の重要性や、公理や定義の明瞭さ重要性を示唆している。公理から出発する推論を、論証という
 一方で、通念から出発して行われる推論のことを、弁証論という。
・「種」と「類」
「善は快楽の類であるとある人が言う場合、善でない快楽が見つかったなら、それは誤りである。なぜなら、類は、同じ種の下に入るすべてのものについて述語となるからである」
例えば彼は、人間の類として、「動物」と上げている、「思考するもの」などではなく。類とは、区別のために恣意的に設定されるものでなく、存在論の自然的分類に帰属するものである
・弁証論、すなわち通説についての考察を通じた、思考探求
 そうした命題に対する、自身の態度を明らかにするために役立つ。また、考察能力を高める練習ともなる
 「こうした推論を成功させる秘訣は四つある。(過去人を通じた)命題の収集、言語の明確化、種差の発見、類似の物の探求」
 彼はこれらを、単に討論での勝負に際する方法論ではなく、自身一人の内省のための手段として、提案しているようである


<自然学-概要>P220
・「およそいかなる研究の分野においても、その対象にその原理原因ないし構成要素がある限り、我々がそれを学的に認識しているというのは、これらの原理・原因・構成要素をよく知ってからのことである」
・我々の事物の考察は、「我々により知られているもの」すなわち知覚されるものから出発する。それを足場にして、客体としての自然をより明らかにしていく。そうして普遍から特殊に個々を識別できるのである
・自然学と運動のの研究:ある性質(形相)が充足している状態、それが欠如している状態。およびそれらの反する状態を有している基盤。彼はこれを当初運動の三原則とした
⇒欠如は形相の充実の反対でしかないから、これを排して、形相と質料、という二原理に行きついた
・彼の考える自然とは、「ものが運動したり静止したりする原因となっている、なにものかのこと」
・運動とは、ある形相への変化の可能性を持った、可能態のその現実態への変化の過程?
・時間:時間は、過去と未来の「あらぬもの」の合成であるし、運動変化のように過多はないから、明らかに運動ではない。しかしながら、運動の生起する以前と以後を識別する、運動の数である。
 数である以上、知覚による認識なしには存在しえない
・自然界に存在するものが合理的に運動するのには、なにか目的があるはずである。その最終目的は美の領域に属することであると思われる。

<自然学-天体について>P247
・天界は人間よりも神的存在であると思える。天界について、我々の多くのことを認識していないものの、自然学の考察の対象として、そのロゴスに近づくのである
・彼の考えでは、天界は球体であり、それに反対する運動を持たないために不変不滅であり、地上を構成する物質より上位の者「アイテール」で構成された知的存在である

<自然学-動物について>P258
⇒思い込みによる間違いは散見されるものの、きわめて広い分野で正確な記述をしており、生物学や解剖学の祖であった

<自然学-霊魂について>P264
⇒人間の生命の営みに関する観察。プシュケーに関する論。
ギリシャ語においてプシュケーとは、生命力の源とを指す。人間のプシュケーにおいて固有なものは、事物を認識する力、である。
彼はこれを、生物における第一現実態と定義する。また、プシュケーと身体で生物なのである、と言っている
・プシュケーの能力:栄養、感覚、欲求、場所的運動、思考。これらの五つを兼ね備えたのは人間という生物のみである。
⇒人間は、合成的物質である対象の、形相を質料から分離して認識できる
・受動的理性と能動的理性
 ・受動的理性による思惟と感覚:感覚が感覚対象に対するのと同じように、理性によって思惟対象の形相を受け入れるような思惟の方法が、受動的思惟である
  思惟はこのように一切を包括言うるために一切に優越し、いかなる形相も受け入れうる純粋可能態なのである
 ・能動的思惟。彼は、受湯的思惟が個別の生命とリンクして可滅であるのに対し、能動的思惟は不滅であるとしている。しかしながら、人間は能動的思惟がなければ思惟できない


<形而上学 metaphysica-序章>P282
physica(自然科学的なもの)のあとに言及されるべきもの。これは後世の編纂時においてつけられた名前で、彼自身は第一哲学といった
・諸々の運動を根源的に発生され、秩序立てているものはなにか。そのようなものは存在するのか。そもそも存在とは何か。人間が存在者の間に立って、「知る」とはどういうことか
・序文「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」。人間は、本能として知ることを欲する。感覚でさえも、最も明瞭に事物を認識できる視覚を用いることを好む
・まず人間は、(他の動物にもあるが)記憶する力を有するし、多くの記憶が経験となる。それに加えて推理する力も有する。経験が積み重なって推理力と合わさって、一つの普遍的な判断が下される。これが技術や学問である。
・アポレティカ:弁証法(ディアレクティケ)の派生として論じられた考え方。イデア的実体の革新から試案をスタートさせるのでなく、自らから問い、自ら考え、自ら批判することによって事物の本質を探究する
 アポレティカ的思案は、まず「我々により知られているもの」から出発してその答えを出す。パイデア(健全な常識)により、思案者は事象を判断する。
 ⇒思案者のパイデアが「事象に照らして空論を検出したとき、よりよい探求を求めて別の探求の道をたどる」。すなわち視野の転換が自由に行われるということである。(=弁証法的な考え方かと思われる?)
 このような批判的思想の仕方を自己一人の内部に求め、普遍的思案の可能性を探求した

<イデア論批判>P323
プラトンにおいても、エイドスという言葉は使う。しかし、エイドスとイデアはギリシャ語としては同じく「形」を意味する。しかし、アリストテレスはプラトンのイデア論を否定する。
1.イデアは常に価値的なものであるというが、例えば老衰や消滅といった現象について、その現象のイデアをどう説明するのか?
2.イデアが多数の物の上に立つ名称であるとして、それは言葉によって示される概念に等しい。そうすでば、否定的な言葉のイデアを認めるのか?
3.イデアはそれ自身が実体を持つならば、それをさらに対象としたイデアの無限生成が生じる
4.感性的事物(感知できる文体物体)から全く外在的なイデアは、その事物の運動変化を説明することはできない。
5.超越的に外在している実態に対して、内面を持たない質料が、思慕を感じることなどあろうか?

<知識論>P328
プラトンの言う知識は、魂の内部からイデアにさかのぼることによって獲得される
アリストテレスは、まず感知を起点として、感覚⇒記憶⇒経験⇒技術⇒学問、といった感知の繰り返しと推理によって獲得される

<存在論>P336
・例えば人間を動物として研究するのは生物学的なアプローチである。一方で述語の概念を拡大して、人間を性質の一部を切り取らずに存在として研究するアプローチもありうる。
 上記を一歩進めて、存在beingを存在beingとして研究する学問を考えてみる。その究極的ゴールは「諸々の形相としての存在、原理や原因はなにであり、何故存在するのか」
・では存在の意味とは何か。 S is P 言い換えると、PがSとして存在している。すなわち S is Pの形の命題が肯定されることは、そのままSのPとしての存在を肯定する
・彼は実体を二つに分けて区別、第一実体と第二実体。例えば前者は、Aという名前の個別の人である。後者はその人の属する種や類のごとき普遍性、すなわち形相を指す
 ⇒プラトンのイデアと異なり、彼のいう形相は個別に内在する普遍性のことを指すのである
 私が人間であるという命題が成り立つのは、私という実体が人間という種が指す普遍性(=形相)を内在しているからである。私が馬であるという命題が否定されるのは、私の内部には馬という種がさす普遍正がないからである。
・存在ー1.付帯的存在。S is Pは真であるが、常にS=Pとはならないものの、その命題の限りにおいては真になる場合。彼は、これを学問の対象とはしない。
   ー2.命題の清としての存在:S is Pが晋であり、SがPとして存在していると置き換えられるもの。しかしこれは命題の思考者の頭の中に存在しているに過ぎない。彼は、これを学問の対象とはしない。
   ー3.実体(ウーシア):第一実体と第二実体、すなわち質料と形相。
     ⇒第二実体:普遍者(範疇形態しての存在)、類、本質、の三つに分けられる

<アリストテレレスの存在論>P352
・一つの主語に対して、複数の述語を認めた。S is P であり、S is Qであるという命題の立て方を認めた。古代ギリシャの哲学において、一つの主語に対して、一つの述語でしか完全には説明できないという主張者もいた
 ⇒後者の考えでは、事物の定義を述べることは実質不可能である。なぜなら、あまりに詳細かつ冗長にならざるを得ないから。
  アリストテレスはそうでなかった。S is Pの形で定義をつける際、PはSの必要条件であればよい。だから、「犬は動物である。人間は動物である」、二つの命題ともに成り立つ
・プラトンのイデア論も、前者の考え方である。S is P の真命題において、Pはイデアであり、Sはイデアの陰である。「犬は動物である。人間は動物である」において、犬も人間も、動物性というイデアを分有するのである
・アリストテレスのS is P 命題の判断は、以下の二つに場合分けされる
 1.Sが合成態であった場合:S is P = P can be extracted from S = S has P = P has S。判断とは、実体的存在Sから、述語の範疇的存在Pを抽出すること。推論とは、抽出されたPに即して、それを共通の媒介として、複数の実体的存在の関係を見ること
 2.Sが形相であった場合 :第二実体の中でも本質は、文法的に命題の主語になりうる。このような命題は、その主語と述語との間における論理的領域論や種類関係などの、相互関係を論ずるものである

<神学>P364
・諸々の学問の中で情報の学とは、ある特定の存在を抽出し、かかる特定存在の研究に専念する。これらの諸学は、研究対象を感覚的に自明であるとしたり、何かしらの仮定を置いたうえで研究すのである。
・一方で、本質的にその「ものがなんであるか」を問う学が、第一哲学(テオロギケー・神学)
彼は思考の末に、何を追及したのか。諸説あるが、筆者によると
・神的なものの証明。ここでいう神性は、素朴な神秘理論ではない。究極の目的・原理としての神性な存在を多面的に考えた
 内的な証明。思惟や幸福や善といったものの根本原理となるような精神的概念。しかし「形而上学」著書においては、記述が不十分
 外的な証明。運動の原理からスタートし、その原因をさかのぼることで行き着く、不被動の動者としての存在。不動であるがゆえに、形相のみの存在(純粋形相)である
 ⇒当著書のある章ではこれをただ一つの存在と明言している一方、別の個所では複数系で書いていたりする。
  彼は、円環運動を無限恒常の象徴としていた。「各々の円環運動はそれぞれ不動の動者たちを有するが、全宇宙はただ一の動者によっている」という観を確立していたようである
・上記が彼の主張の概要である。しかし著者は、例えば天体の申請や、円運動の恒常性などは、あくまで古代ギリシャにおいて観念的に通用していた自明の理を用いたに過ぎず、考察が足りていなかったと批判している。
 著者はさらに加えて、今日までの哲学が、そのような問題点も少なからず抱える彼の著書を前提条件としたような、古代ギリシャ的なパロキアリズムに根を下ろしたものが多すぎることを問題視している


<倫理学>P402
⇒本書は後代の著者によるものと思われる「大倫理学」の文研研究が多いが、下記はニコマコス倫理学にかかわる部分を抜粋
「あらゆる技術も研究も、行為も洗濯も、すべて等しく良いものを求めている」
幸福を求める人の三つの生活形態:快を追及、名誉を追及、知を追及
・「真の幸福を決定するのは、徳によって生じる活動」。徳は、個々人の持つ四つの持前(ヘクシス)、勇気、実践知、節制、正義
 勇敢:死(特に戦争による死)から生じる突然の恐れに対し、心を乱さない人は、いずれ将来やってくる死に対して平静でいる人よりも、さらに勇敢であるといえるだろう
 しかし無謀と勇敢は違う。勇敢とはそのような恐怖の場面において、中庸な態度をとることである、そして中庸なスタンスを持って行為することを選び、その行為が麗しいがゆえにあえてそう行為する
 ⇒徳の一般の規定とつながる。徳は中庸であり持前である。徳は我々の力(=意思?)の範囲内に属していて、正しき理の命じるところに従う。
・大倫理学は、おそらくのちのヘレニズム時代に書かれたものであり、アリストテレスなどの古代の体系を発展させた節がみられる
 死とは生物学的物に限らず、魂の堕落により滅することも同様に死といえる。勇敢は、人間の価値を決定するような倫理的危機において、あらゆる誘惑にも毅然として事故を失わない心の力。
 死は、実存する体験ではない。したがって死に対する恐れの超克は、他の恐れを克服くすることで得る持前では、達成することができない
 上述のような「魂の在り方」、すなわち霊性と、理性による考えを一致させることに、当時代の思想はアリストテレス倫理学を発展しているように思われる。
 ⇒一方で、これらはプラトンの書物の中に芽として存在しているのである

<政治学>P454
・「人間は生まれながらにしてポリス的な動物である」。人間のみがロゴスを用いてポリスを構築した動物である

<詩学>P455
人間の精神活動の三分。学問、行為、制作。

<最後に>P460
・学知と実践知・前者はものの理を認識する力、後者は原因から一つの結果が異常の物が発生する事象を考察する力
 人間が行為を選択する際に行う思考は後者の実践知である。そこには論理と自由の選択がある
・「詩は、未来におこる可能性のあるものを模倣する」
・彼の体系だった思想のなかで、21世紀の思想史において大きく影響を残すのは、様相論理学、存在論、芸術論、倫理学、などであろう

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: インプット(完)
感想投稿日 : 2022年3月26日
読了日 : 2019年10月20日
本棚登録日 : 2019年12月19日

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