反貧困: 「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)

著者 :
  • 岩波書店 (2008年4月22日発売)
3.85
  • (152)
  • (215)
  • (176)
  • (22)
  • (6)
本棚登録 : 1876
感想 : 220
5

 ご存じの方も多いだろうが、著者・湯浅誠氏は2009年の東京・日比谷で開かれた「年越し派遣村」の村長として、その名を一気に世に知らしめた社会運動家。NPO法人自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長として、日本の貧困問題に長年取り組んできた信念の人だ(とはいえ、管政権で内閣府参与となり、辞任→就任→また辞任と繰り返した。この点については評価の分かれるところか)。

 本書の記述は、こういった著者の具体的な経験から練り上げられたものであるだけに、単なる机上の空論なんかよりはるかに迫力がある。中でも一番の白眉は、何と言っても著者の提案する「溜め」の概念。
 「溜め」とは、アマルティア・センの貧困論から着想を得たもので、簡単に言えば個人の潜在能力を作り・引き出してくれる力の源泉。お金もここに含まれるが、それだけでなく家族・親類・友人など人間関係の「溜め」もあれば、自分に自信を持つことができる・やればできるという強い信念を支える、精神的な「溜め」もある(近年の社会学や政治学でよく使われる「ソーシャル・キャピタル」概念に近い)。著者によれば、貧困とは単に金銭的欠乏の状態ではなく、こうした「溜め」が欠如している状態と考えるべきだという。

 深刻な貧困に陥る人には、決まって共通する特徴がある。お金がない・仕事がないだけでなく、身寄りがなく・公的福祉からも見放されているため(市役所に生活保護を拒否されるなど)、八方塞がりで再チャレンジする足がかりが初めから奪われているという特徴だ。最も大事なのは、こうした「溜め」の欠如は決して「自己責任」の論理では解消できないという点。そもそも自助努力が可能になるには、ある程度家庭環境や人間関係などのバックグラウンドが整えられていなければならない。これらの条件を満たせない人は、まず教育課程から排除され、次に就業機会から排除される。この負の連鎖が続くと、最終的には自分自身の存在価値や将来への希望すら否定する「自己からの排除」に行き着く(自殺はこの段階で起こる)。
 こうした状態は、本人の努力不足に起因しているというより、そもそもその自助努力の前提となる社会的・精神的基盤が欠落していることから帰結した事態だ。「貧困に陥った人は努力が足りなかったせいだ」という声は、こうした「排除の構造」をまったく理解していない。それどころかこの種の自己責任論は、自助努力の範疇外で重荷を背負わざるをえない運命に置かれた人にとって、きわめて暴力的な論理と言える。

 本書が出版されて早4年。かつてあれほど猛威を振るった自己責任論も、今ではだいぶ影をひそめたように見える。これにはもちろん、湯浅氏を始めとする社会運動家の地道な活動によってもたらされた成果もあるのだろうが、何よりもリーマン・ショック以降、誰もが貧困に陥るという危険性が現実味を帯びてきたことが、最大の要因だと思われる。

 人間誰しも「自分は努力をしているし、報われるはず」と考えがちなものだ(それこそ精神的な「溜め」があればこそ)。ましてやそれなりの成功を収めれば、それを単なる「運」よりも今まで払ってきた「努力」に還元したいのが人情というもの。だが、誰もが貧困の危機に脅かされる時代になれば、自分の努力不足を云々するよりも先に、むしろ「運の悪さ」を嘆こうとするのもまた人情というやつだろう。それだけに、今のような不況時には得てして自己責任論は後退し、逆に貧困の危機を自助努力の範疇外に置こうとする論理が、いわば一種のエクスキューズとして説得力を持ちやすい。その意味で、世界同時不況と軌を一にして、自己責任論を批判する著者の議論が世間の脚光を浴びるようになったのも偶然ではない。貧困をただそうとする著者の運動は、貧困の深刻化なくして影響力を持ちえなかった。
 何とも皮肉な話ではあるが、世の中たいていこんなものか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 社会
感想投稿日 : 2012年7月12日
読了日 : -
本棚登録日 : 2012年7月12日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする