それをお金で買いますか――市場主義の限界

  • 早川書房 (2012年5月16日発売)
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【感想】
われわれはなぜ転売ヤーを疎ましく思うのだろうか?

転売ヤーへの批判は、主に次の2通りに分けられる。
1つ目は、転売を挟むことで価格がつり上がり、供給者から転売ヤーに利潤が吸い上げられているという批判。2つ目は、転売によって本当に欲しい人に品物が届かなくなるという批判だ。

しかし、この2つとも有効な批判とは言えないだろう。
1つ目の批判に対しては「自由主義的」な観点から擁護できる。モノを売る会社の一方的な値付け価格では、市場価値が正確に反映されていない。買い手の需要と売り手の供給とが合致した結果としての「転売価格」が、むしろ正統な値段であるという擁護だ。
2つ目の批判に対しては、「本当に欲しい人とはいったいだれを指すのか?」という観点から擁護ができる。本当に欲しい人とは、市場の性質を考えれば、他者よりも多くお金を払う人だ。転売ヤーから言わせれば、安すぎる商品に人が殺到することこそ「欲しい人の気持ちを考えていない」行いになる。そこで転売ヤーが適切に高い価格で再販することで、どうしても欲しい人と商品の橋渡しをするのだ。

結局のところ、どちらの言い分も一長一短である。

本書では、この2つの観点から市場主義を問うのは効果的ではないと述べている。
では、サンデル氏はいったい何に着目したのか?どうやってこの禅問答のような議論を崩しにかかったのか?
それは、「善き行いか?」という観点からの批判であった。

ライブチケットを転売する人は、チケットを買うことが目的であり、ライブ自体を楽しみだとは思っていない。言い換えれば、歌手への尊敬に欠けている。
これは日用品でも同じだ。例えばマスクの転売である。マスクの転売が批判されるのは、転売ヤー本人が「マスクを自分で使おうとは思っていないこと」つまり、「マスクを買うための目的が倒錯している」ことにある。
これらはどちらも「善」に関する議論だ。買う人間に対して、「それを買うのにふさわしい態度を身につけるべき」という批判をする。この批判をもとに、あらゆることを市場化することへの警鐘を鳴らす。

当然ながら、これは経済学の領域では論じきれない。経済学では、ものを買う目的を俎上に載せることはない。また、この批判は「では、善とされるものの定義はなにか?」という道徳的な議論を行う必要がある。その難しさから、「あまりに理想主義すぎる」という反論も起こりうるだろう。

しかし、経済学に倫理を持ち込むことは、確実に必要である。
何故か。
それは、あらゆるものに価格をつけるという行為が、「下から上への再分配」を生み出し、格差を拡大するからだ。

累進課税に代表されるように、社会には多くを持つ者からあまり持たない者へと資源を再分配するシステムが取り入れられている。それは格差の是正と、資本主義を過熱しすぎないようブレーキをする役割を持っている。
しかし、今まで価値のつけられなかった(無料であった)ものに値段をつけるという行為は、持たざる者が手にしていた「機会」を、金に換えてそっくりそのまま売り渡すことになる。持たざる者の「機会」を買う値段は、持つ者にとっては微々たる金額だ。そこで起きるのは平等な「等価交換」ではなく一方的な「分配」であることは言うまでもない。
そうしてなにより、機会の値付けの際に「選択肢」を持っているのは、裕福層側であるのだ。

金による解決は、社会にとって決してよい結末を産まない。
であるならば、――日常領域に市場が侵食してきたように――善という「非市場的な概念」を市場に持ち込むことこそ、過熱した資本至上主義を止めるのに必要なものなのだ。

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【本書の概要】
市場や商業は触れた善の性質を変えてしまう。われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるを得ない。そして、その問いに答えるためには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議がかかせない。
格差が広がる時代に、あらゆるものを市場化するということは、格差がますます広がることを意味する。市場をその持ち場にとどめておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に議論することだ。


【本書のまとめ】
1 市場が日常に侵食してきている
代理母、デザイナー卵子、環境汚染権の売買、大学への入学権など、かつては値段をつけられなかった物すべてが売り物となる社会が来ている。
お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。日常生活における市場の役割と範囲を考え直さねばならない。

最初に、この本の結論を述べる。
それは、生きていくうえで大切なものの中には、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということ。したがって、市場がふさわしい場所はどこで、一定の距離を保つべき場所はどこかを決めるには、問題となる「善」――健康、教育、家庭生活、自然、市民の義務など――の価値をどう図るべきかを、問題ごとに議論する必要がある。


2 行列に割り込む
遊園地のファストパス、行列に並ぶ「並び屋」、診察券のダフ屋、コンシェルジュドクター。「先着順」という行列の倫理は、「安かろう悪かろう」という市場の倫理に取って代わられつつある。
「金で順番を買う」ことへの擁護は、主に次の2パターンが挙げられる。「市場は買いたい人と並びたい人の効用を最大化させる」という擁護と、「買い手と売り手の自由意志を妨げてはいけない」という擁護だ。

しかし、ここで財の配分方法に関して議論するのは、適切ではない。問題は「善」に関することがらなのだ。

無料で行うコンサートに「並び屋」が並べば、我々は快く思わない。これは価値無きモラルに「市場価値」をつけることで、ある財における「善」を腐敗させるからだ。無料コンサートはまったくの商品でも、市場財でもない。にもかかわらず、そうであるかのように扱えば、コンサートを貶めることになる。
だからこそ、われわれはダフ屋や行列屋を疎ましく思う。それは、かつては「良識」の範囲内で楽しんでいたものごとが、金銭によってその倫理的価値を歪められたからなのだ。


3 インセンティブ
お金を払って避妊手術を受けさせる。いい成績を取った子に賞金を与える。タバコをやめた人にお金をあげる。
健康的な行動と引き換えに賄賂を渡すことは、一見winwinに見えるのに、贈収賄であるという非難が当てはまるように思えるのはなぜだろうか。
それは、金銭的動機によって、ほかのよりよい動機――学ぶことへの悦び、肉体の健康への正しい姿勢――を排除するからである。
言葉を変えれば、市場のせいで、出産や勉強や禁煙が「どう扱われるべきか」という見方が変わってしまうのだ。

●罰金と料金の違い
イスラエルのとある保育園が、迎えに来る親に罰金を科すことに決めた途端、遅刻が倍増した。今までは、遅れてきたときに「良心の呵責」を感じたが、今では「お金を払えば預かり保育を延長してくれる」という心理に変わってしまったのだ。
これと同じことが、より広範で国際的な取り組みである「排出量取引」でも起こっている。

善への罰である「罰金」が、しかじかをする権利である「料金」に変わってしまい、よりモラルから逸脱することがありうる。市場の範囲が、非市場的規範の律する生活領域に広がると、標準的な価格効果は失われてしまうことがある。

端的に言えば、規範が重要なのだ。市場に任せることで効率化が進んだとしても、ときにそれは責任ある倫理に求められる「自制」や「自己犠牲」、「良識的マナー」の意識を傷つけ、行動を悪化させる危険があるのだ。

したがって、ある善を商品化するかどうかを決める際には、効率性や分配的正義の先にあるものを考えなければならない。また、市場的規範が非市場的規範を締めだすかどうか、締め出すとすれば、それが配慮に値する損失かどうかを問わなければならない。

われわれは、金銭的インセンティブの効果を予測するだけではなく、道徳的な評価――そのインセンティブが、守るに値する姿勢や規範を蝕むか否か――を下す必要があるのだ。


4 市場が道徳を締め出す
お金で買えるが、そうすべきではないものがある。友人やノーベル賞の売り買いは、お金で買えるが善が台無しになるものであり、臓器や子供の売り買いは、善はなくならない(お互いが納得した上で取引するため)がほぼ確実に腐敗するものである。
市場での評価と取引によって堕落してしまうという善がある。市場が非市場的規範を締め出し、より低俗な規範に取って代わってしまうのだ。


5 生と死を扱う市場
バイアティカル投資、用務員保険、生保賭博など、「ある人が死ぬかどうか」に賭ける金融商品がある。
たいていの人間は、死ぬ確率に賭けるギャンブルを道徳的に不快なものとみなす。しかし、ギャンブラーが当事者を苦境に陥れず、ただ遠くから賭けを楽しんでいるだけならば、なぜ非難されるいわれがあるのだろうか。

死の賭けがあるまじきものだと仮定すれば、その理由は市場の論理を超えた、そうした賭けに現れている「非人間的な態度」にある。

ときとして、われわらは道徳的に腐敗している市場慣行と共存する道を選ぶ。それがもたらす社会的善のためだ。生命保険はこの類の妥協の産物として始まった。しかし、生と死を扱う現代の巨大市場が証明しているように、保険はギャンブルとの境界線があいまいなものになろうとしている。市場の範囲が非市場的範囲を飲み込もうとしているのだ。

あらゆる「低俗」とみなされる市場還元には、2つのパターンがある、一つ目は「強制と不公正にかかわるもの」もう一つは「腐敗と堕落にかかわるもの」だ。そして、前者だけ議論しても決着はつかない。大切なのは、後者について論じる場を設け、どこまでに値をつけてよいか社会の中で決定していくことだ。

なぜそうした議論が必要なのか?それは、自由主義や功利主義といった従来の経済学のパラダイムでは、市場的思考や市場関係が人間のあらゆる活動に侵入してくる世界の何が問題なのかを説明してくれないからだ。こうした状況の何が不安をかき立てるのかを説明するには、腐敗や堕落といった道徳的な語彙を使う必要がある。そして、腐敗や堕落について語るには、「善き生」という概念を避けては通れないのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年4月28日
読了日 : 2021年4月26日
本棚登録日 : 2021年4月26日

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