「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機

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  • ダイヤモンド社 (2013年8月23日発売)
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【メモ】
1 死刑制度は被害者遺族のためにあるのではない
「被害者の人権はどうなるんだ!」
死刑反対を訴える弁護士や知識人たちへの反論としてよく使われるフレーズだ。
このフレーズの前提には、決定的な錯誤がある。シンポジウムの際に高校生たちは、「被害者の人権を軽視しましょう」などとは発言していない(当たり前だ)。ただし加害者(死刑囚)の人権について、自分たちはもっと考えるべきかもしれないとのニュアンスは確かにあった。そしてこれに対して会場にいた年配の男性は、「殺された被害者の人権はどうなるんだ?」と反発した。つまりこの男性にとって被害者の人権は、加害者の人権と対立する概念なのだ。
でもこの2つは、決して対立する権利ではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものではない。シーソーとは違う。対立などしていない。どちらも上げれば良いだけの話なのだ。加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと同義ではない。

二項対立は概念だ。現実とは違う。現実は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止ってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めているから振り返ることもしなくなる。

「自分のこどもが殺されても同じように(死刑制度は廃止すべき)と言えるのか」という人たちには、「もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのですか」と質問したい。
死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。
つまり命の価値が、被害者の立場や環境によって変わる。ならばその瞬間に、近代司法の大原則である罪刑法定主義が崩壊する。

刑事司法は意識的に、被害者遺族の心情とは一定の距離を置いてきた。情緒を法廷に導入することについて、できるかぎり慎重になるべきだとの姿勢を固持してきた。被害者の写真を遺族が法廷に持ち込むことを、意味なく禁じていたわけではない。
でもそれが1995年に劇的に変わる。
不特定多数の殺傷を狙ったオウム真理教による地下鉄サリン事件とその報道は、自分や自分の家族も被害者になったかもしれないとの危機意識を、国民レベルで強く刺激した。つまり被害者感情の共有化だ。だからこそ地下鉄サリン事件以降、被害者遺族への関心が急激に高まり、これに気づいたメディアはさらに遺族の悲しみや怒りを煽り、共有化された被害者感情は罪と罰のバランスを変容させながら厳罰化を加速させ、メディアと民意から強いバイアスをかけられた司法は、厳格な審理よりも世相を気にし始めた。

オウムによる地下鉄サリン事件は、不特定多数を標的とした犯罪だ。特定の誰かを狙った犯罪ではなく、国民全員が被害者になる可能性があった。だからこそ膨大な量のメディア報道に刺戟されて、被害者感情の共有化が促進された。さらにサリン事件の動機の不明確さなどもこの恐怖と不安に拍車をかけ、悪に対する「許せない」との気持ちが高揚し、厳罰化が促進した。

被害者遺族の気持ちを想うことは大切だ。実際にこの国の被害者遺族は、これまであまりにも冷遇視されてきた。オウム事件以降は急激に変わったけれど、遺族や被害者に対しての救済や補償はもっと整備されるべきだと僕も思う。でもそれは、同調することとイコールではない。
あなたが被害者遺族である可能性はある。ならばその報復感情を僕は否定しない。できるはずがない。僕だってそうなるかもしれない(でも実は、報復を否定する遺族も少なくはない)。だから被害者遺族ではないあなたに言う。遺族の気持ちを想うことと恨みや憎悪を共有することは、絶対に同じではない。想うことと一体化することは違うし、そもそも一体化などできない。


2 善意は陶酔しやすい
映像メディアと音声メディアが誕生した20世紀初頭、メディアの発達で情報が行き渡れば、世界から戦争や飢餓は絶えるはずだと多くの人々は考えた。でも事態は逆だった。確かに善意は広がる。でも一方的なのだ。しかもメディアによって流通する善意は絶望的なまでに軽い。だから容易く正義へと転化する。しかも善意に付随した憎悪や恐怖も拡散される。結果としてこちら側だけの正義や大義が肥大する。虐殺や戦争を誘発する。だからこそ20世紀は戦争の世紀になった。

もう一度書く。善意は否定しない。できない。でも善意は陶酔しやすい。一方向に加速する。だから周りが見えなくなる。その帰結として多くの不合理や不正義を生む。多くの人を苦しめる。


3 表現を付け加えすぎる日本のメディア
海外のメディア関係者が来日して日本の夕方のニュースを見たとき、誰もがまず、「なぜ報道番組で行列のできるラーメン屋や回転寿司店のランクなどを放送するのだ」とびっくりする。
そして次には、「なぜ事件報道ばかりがこれほどに多いのだ」と首をひねる。日本中で人が殺されたり殺したりしているかのような印象を受けるらしい。確かに事件報道も大事だけど、伝えるべきことはもっと他にもたくさんあるはずだと。
そのたびに僕は説明に困る。まあ実のところ、これらのすべての疑問に対して、「そのほうが視聴率が上がるんだよ」と説明することは容易いし実際にそうなのだけど、やっぱりそれは、日本のテレビ関係者としては口にしたくない。
彼らが口にする違和感はもう1つある。モザイクやテロップだ。「あまりに多すぎる」と嘆息される。映像制作を志してこの業界に入ったはずなのに、この番組のディレクターやカメラマンたちは、画がこれほどに汚されることに対して憤りを感じないのかと。

表現の本質は欠落にある。つまり引き算。ミロのビーナス像が考古学的な価値に加えて優れた芸術作品になった理由は、両腕が欠損しているからだ。想像力を喚起するからだ。でも今のテレビ・メディアは、徹頭徹尾足し算だ。それが自分たちの首を絞めていることに気づいていない。メディアが進化すればするほどこの傾向はますます進み、人々は世界に対する想像力を失い続ける。つまりメディアが(今の方向に)発達すればするほど、皮肉なことに、世界はより単純化され、こうして悲劇が恒常化される。他国での虐殺や大規模な飢饉よりも、今日の昼食はラーメンにするか牛丼にするかのほうが重要になる。飢えて死にかけている他国の幼い子どもたちよりも、やりかけているテレビゲームのほうが気にかかる。

世相形成にダイレクトに結びつくテレビ・メディアの役割は重要だ。ところがそのテレビが、他者への想像力の枯渇に大きな貢献を果たしているのだとしたら、人類の未来は絶望的だ。もしもこのままメディアが進化し続けるなら、環境破壊や核戦争や宇宙人の襲来などではなく、メディアによってこの世界は滅ぶだろう。


4 共同幻想
共同幻想とは、思想家の吉本隆明が提唱した、地域や会社、信仰や民族、国家など集合名詞的な観念を保持する共同体と個の関係である。

今の社会では、もともとは「空気」としての下部構造であった共同幻想が、上部構造である法としての共同幻想を侵食して捻じ曲げ始めた。
治安が悪化しているとの前提に危機意識を煽られた世相は、集団化を進めながら敵の不在による不安に耐えられず、(9.11後のアメリカがそうであったように)自ら敵を作り出す。つまり仮想敵だ。共同体内部においては少数派への差別や排斥が始まり、厳罰化は進行し、共同体外部においては仮想敵国が出現する。そうして虐殺や戦争は起きる。

人は集団になると間違える。そして集団の過ちは取り返しがつかないほどにダメージが大きい。


5 日本には無罪推定が存在しない
特に9.11以降、過剰なセキュリティ状態に陥った世界は、全般的に強い厳罰化の傾向にある。アメリカではこの40年で、刑務所に拘禁される囚人の数が約6倍に増大した。その総数は2008年始めで231万9258人。国民の100人に1人が囚人ということになる。日本も確実に厳罰化の道を歩んでいる。オウム以降、受刑者の総数はほぼ2倍に増加した。

日本の犯罪件数は戦後減少し続けている。しかしメディアの過剰な犯罪報道が、くすぶる不安にさらに拍車をかける。こうして体感治安は悪化し続けて、厳罰化は加速する。

ちなみにヨーロッパの多くの国で指名手配犯のポスターは、原則的には存在しない。なぜなら無罪推定原則に抵触するからだ。もちろんこの原則は、近代司法国家すべてに共通する。でも一審有罪率が99.9%を超える日本では(世界レベルの平均は80~90%くらい)、「検察官が有罪を証明しないかぎり被告人は無罪として扱われる」とされる無罪推定原則が、ほとんどなし崩し的に無効化されている。容疑段階で名前や顔写真を公表することは、刑事訴訟法336条や国際人権規約に抵触することは明らかなのだけど、そんな指摘もほとんどない。一審有罪率99.9%は圧倒的な世界一であり、そもそも1000件のうち999件が有罪であることが異常なのだけど、まるでダブルシンクの状態にあるように、この国の多くの人は不思議に思わない。


6 共同体の暴走
小説『1984年』のビッグ・ブラザーはメタファーだ。多くの人の幻想によって存在を裏づけられ、正当性を与えられる。実在しない権威に支配される国民は「見守られて安心できる」とつぶやきながら相互監視体制を強化し、自らの自由や権利を自ら抑圧して制限している。
プロパガンダは日々行われているけれど、その主体は存在しない。あるいは主体と客体が重複している。オウム以降のこの社会は、存在しない敵に脅え、存在しない悪を憎み、存在しない権威に熱狂しながら従属し、存在しない規制に縛られている。

ビッグ・ブラザーなる最高権力者に支配された超管理統制社会で人々は思考を失い、自由を忘れ、ただ家畜のように生きている。でもビッグ・ブラザーは実在する人間として登場しない。誰もがビッグ・ブラザーの意思に従っているつもりなのに、その意思が実のところ分散的に遍在している可能性をオーウェルは描いている。つまりこれもまた過剰な忖度だ。撃沈されることをわかりながら戦艦大和が出航した理由は、御前会議における天皇の「海軍にはもう船はないのか」との質問を、「最後の一隻まで戦え」との意思だと海軍最高幹部が思い込んだことが原因だとの説がある。
こうして側近や幹部たちの「過剰な忖度」が駆動力となって、組織共同体は暴走する。オウムや連合赤軍にもこの要素はあった。取り返しのつかない事態が起きてから、人は顔を見合わせる。いったい誰が悪かったのだと言いながら。
人類が有史以来続けてきたこの繰り返しを、そろそろ本気で終わりにしなければならない。なぜなら現代は、かつてとは比較にならないほどメディアが発達した。ならば「過剰な忖度」が、より大規模に国民レベルで展開される可能性がある。特に集団化や同調圧力や忖度と相性がいいこの国は、その危険性がとても大きくなっている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2024年3月13日
読了日 : 2024年3月7日
本棚登録日 : 2024年3月7日

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