一千一秒物語 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (1969年12月29日発売)
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「後の作品は全て、『一千一秒物語』の注釈である」とは、稲垣足穂その人の言である。68編の断簡から成るこの作品に安易なカテゴリーを与えることを、僕はしたくない。

これは、ショートショートではない。確かに、この作品が星新一という才能をして絶讃せしめた逸話は有名であるし、その影響もある程度の忖度を許すだろうが、稲垣足穂の方法は星新一のそれとはハッキリと趣を異にするものだ。

これは、小説でもない。それは数多残された「注釈」を一瞥するだに了解されるだろう。足穂が小説として披露してきた作品は、そこに通底する論理から表現の一々まで、文藝的な技巧に満ちている。『黄漠奇譚』の、例えば、冒頭に見られるイコンと色彩を駆使して芳醇に冴え渡る絵画的な情景描写や、『弥勒』の私小説的な風情を支える強靭で執拗な展開と、『一千一秒物語』の淡白な語り口とは、方法の根底からして異なっている。

これは、詩でもない。なぜならここには「表現への意識」が欠落しているからだ。詩の言葉が対象を表現しようとする、一切の慾望が失われているからだ。故に『一千一秒物語』はポエジーたり得ない。

では、これはなんだ。『一千一秒物語』とは何ぞや。多少の誤解は免れないだろうが、僕はこう思う。これは、「文」である、と。これは、そう、ちょうど、最初期の漱石が筆で紡いだあの「文」である。カフカが『日記』に遺したあの「文」である。ブランショが『不在』を語るあの「文」である。遊戯と感覚に乗った、一つの途方もない志向性である。

ここで示される足穂の志向性は、極めて明快だ。それは時に月へ、星へ、ほうき星へ、天体へと向かう、果てしない上昇への志向性である。足穂の意識はひたすらに上昇し、天空の彼方で概念と戯れる。その交流の記録こそが『一千一秒物語』という68の、そしてひとつの「文」に他ならない。

足穂の生まれは1900年である。『人間の土地』を、『夜間飛行』を、そして『星の王子さま』を遺して戦線の空に消えたサン=テグジュペリが生まれたのもこの年だ。ライト兄弟の登場以来続くことになる一連の飛行実験の成功が、少年たちの心に宿したであろう大志の相貌は、想像に難くない。そしてとある少年はやがて筆をとり、彼の意志は一千一秒の物語として、どこまでも高く飛翔する。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 日本
感想投稿日 : 2013年3月12日
本棚登録日 : 2013年3月12日

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