「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫 た 32-3)

著者 :
  • 筑摩書房 (2005年12月1日発売)
3.53
  • (5)
  • (14)
  • (15)
  • (4)
  • (0)
本棚登録 : 126
感想 : 16
5

苫野さんおすすめの一冊。普遍的なテーマについて哲学的に読み解いて行く。参考になるところも多く、楽しめた。ビギナー向けだが、僕には難しくも感じた。でもビギナーの方にはぜひおすすめしたい。

2015.3.29再読。同著者による、自分を知るための哲学入門を読んでからこの本を読むことをお勧めする。自分とは、他者とか、世界とは、その関係性とは、死とはについて、過去の哲学者の考えを骨組みに著者の思想を展開した一冊。難しかったが前回読んだ時よりは理解できて、自己や世界に対する理解や考えが広がり、深まり、すごくすっきりした読了感がある。

2015.10.27再再読。ルソーのエミールに、人間の不幸とは欲望と能力の差であるという記述がある。ならば人間はどのような欲望を持ち、そしてどのようにその差異に対し納得するか、これがわかれば少しでも生きやすくなるのでは、そんな直観をエミールは与えてくれ、そしてこの本と同著者の「自分を知るための哲学入門」が、その直観に対するひとつの答えを与えてくれた。まず死について。死ねば無になる、これはかなり説得力のある言説であり、またエピクロスの言うように、生ある内に死はなく、死ある内に生はない、よって死は原理的に分かり得ない。この暗黒点に対する不安、恐怖が人間にはある。死ねば終わり、それなら人間はただ快楽を求めればいいという、ニヒリズム及び快楽主義に陥ってしまう。まず死に対する解釈として、死があるからこそ生がある。もし不老不死なら、と考えると、食べず眠らず何も欲しない。自我すら成立しない。つまり、無欲である。なぜなら何をしなくても死なないから。これはつまり河原の石ころ同然ではないか。死があるからこそ欲望もあり、幸も不幸もある人生を歩める。死んだら私は無になるが、死なないのならばまた私は無なのである。そして死を避けることを根本に、人間は欲望存在である、と言える。それは幼少期の全能世界から、母から褒められるということを通し、全能世界の挫折による空想的ロマン世界の形成及び母に褒められたいという関係の欲望へと変わる。しかしこの空想的ロマン世界も現実ではありえないため挫折する。そして次に青年期のアイデンティティの欲望へとなる。これは欲望の形を関係の中から、つまり周囲の他者から学ぶことで、社会的な価値観を見出し、それと自分と同一化させようとする物語(私は〇〇だ)の欲望である。このように人間の欲望は、無からの逃避と、全能への憧れ=ロマン的理想自我欲望を持っている。アイデンティティの欲望に至るまでがそうであるようにこのロマン的欲望は、常に現実との関係の中で挫折し、新たに組み替えられた欲望として生まれ、という中で育まれたものである。人間は欲望存在であり、その欲望(ロマン)と能力(リアル)のぶつかり合いこそが、その均衡の了解を刷新していくことが、生きるということである。そしてそのバランスを、取り間違えると人間はスポイルしてしまう。ヤンキーはロマンを捨てきれずしかしリアルも認められず、ルサンチマンに囚われ、反社会的行為と自我を同一化することで全能感を保つパターンではないか。またロマンの挫折から立ち直れず寧ろリアルから身を隠し、自分の肥大化したロマン世界をネットやゲームで放蕩するのが、ネトゲ大好きの引きこもりではないか。ルサンチマンが世界への反抗でなく自己への攻撃つまり自己懲罰へと向かうのがメンヘラではないか。ロマンが挫折し、リアルも受け入れられず、完全に宙ぶらりんになると、生きながら自我が無になる、これが自我拡散ではないか。つまり、何を欲するか、その欲するものと現実との折り合いをどうつけているかで、その人間がわかる。また自分自身も、わかる。人間の悩みの大半はこの折り合いの失敗ではないか。ではどのように折り合うか、いくつかある。1.遊び、集中、瞑想などにより、ロマン的欲望を一瞬忘れることで自我の緊張を解く、自己解発。2.ロマンを下げる、つまり諦める。3.リアルを上げる、つまり努力する。4.ロマン的世界を他者の主観に晒すことで、リアルの中で生き延びられるロマン世界を相互確証の中から探す。5.別のロマンへ目標を変更する。私がいろんなとこから引っ張ってきたので大体これくらいである。そしてまた死に戻るが、人生の最終地点が死であり無であるという物語は人間の生をニヒリズムと快楽主義に陥らせる。しかしそんな刹那的快楽では人間は満足できない、瞬間的に自分の死という悲劇的運命を忘れるだけである。ではどうするか。ニーチェとハイデガーによると、まずその死の自覚、つまり自分の人生は他者と交換不可能なオリジナルでありかつ一回だけの限定的なものであるという自覚を持つ。それにより、初めて人は、その一回限りのうちで生のほんとうを目指し始める。それは刹那的快楽ではない。それは、死の時に振り返って、やるだけやったという自分の生への肯定感かも知れない。死んでもいい!というほどの喜びの経験が一回でもあれば、永遠回帰を自らの生に望むかもしれない。何にせよ生きる意味、目的は、客観的なそれは、与えられるそれはもうない。神は死んだから。しかし主観的な、自分にとっての意味や目的は、この一回きりの人生の内に見つけられるのではないか。これさえ手に入れば死んでもいいとか、これだけ本気で生きたんだから死も受け入れられるとか、そういう自分の生を肯定できるような本性的喜びを得ること、また自分にとってのそれは何かを知り、得ることが、生の目的であり意味ではないか。死は、この欲望ゲームの上がり、つまり目標ではない。それはゲームオーバーを意味する。つまりゲームオーバーするまでに、上がり=主観的な本性的喜びを見出すこと、それにより生を肯定し、これなら死んでも後悔はないと言える境地に至ること、に至ることが、このゲームではないだろうか。人間とは何か、生きるとは何か、生きる目的とは何か、私が悩んできたこのような中二病的な取り留めのない、しかし切実な問いに対し、説得力のある物語を与えてくれた一冊。これをある程度理解できる自分になるまでに時間がかかったが、同著者の哲学入門と合わせて、今ではバイブルとも言える哲学書である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2015年3月30日
読了日 : 2015年3月30日
本棚登録日 : 2015年3月30日

みんなの感想をみる

ツイートする