大学というところは、自分に何も教えてくれない。この一言は衝撃であった。これまで、手取り足取り、先生たちから教えられてきた高校までの教育、それらとは全く違った世界に今自分は足を踏み入れようとしている。それはまた、心が震えるような興奮であり、感動でもあった。
研究者に向いているか否かの判断の基準は、他人の研究が面白いと思えるかどうか。
能動的に聞くとは、話された内容を、自らのこれまでの知の体系の中に位置づけることであり、位置づけるためには、聞きつつ、常に自分の知の体系を確認し、照合する作業を伴う。
大学の教師は、教科書にはまだ書かれていない、自分にもまだ充分にはわかっていない。ギリギリのところを学生に伝えようとするところに、その本来の使命があると思っている。
私たちのこれからの時間、将来の人生に起こる事は、全て想定外の事なのである。想定外の事態を、何とか自分だけの力で乗り越えていかなければならない。生きるとはそういうこと。
私たちは「自己」をいろいろな角度から見るため、複数の視線を得るために、勉強し、読書をする。それを欠くと、独りよがりの自分を抜け出すことができない。「他者」との関係を築くことができない。
アウトプットの方法を持たない情報は、知識としての価値を持たないという以外はない。
知識と言うものは、それが役に立つことだけを前提として、学ばれるものではない。役に立つから学ぶものではなく、大野晋の言うように、1年に1度どころか、一生にいちど使えれば上、ひょっとしたら、一生使えない情報もあるかもしれない。
しかし、それを前提とした上で、情報をため込むことが、自分の自信になる。
小学校から数えて10数年、どの学生も、一方的に教えられることに慣れすぎているように思う。
必要な知識と言うものは、現場で必要になったときに、調べて知るのが最も身に付く。
学習指導要領が、中学ではここまで、高校では、ここまでと細かく規定して、それ以上の情報の入った教科書を作ってはならないことに、使ってはならないことになっている。
常に安全な方、安全な方と選び、続けていく人生は、どんどんその人間の人生を小さなものにしていくだろう。それは、私には、耐え難く、退屈なものに思えてしまうのである。
孟子に「君子は引きて、発(ハナタ)ず」と言う格言がある。
「ちゃらんぽらんのすすめ」という本。
「あの湯川さんを、とにかく生で見てきたしな」と言う思いが、自分の中にあり、これはとても大切なことだと思っている。
私が深く尊敬している先生に、木村敏先生がおられる。
本を出版し、それを読者が購入して読む。これは、今や当然の社会的行為であるが、そのような流通の考えの中で、抜け落ちてきたものが、書かれている内容に対するリスペクトではなかったか。
「らしく」を教条として、敷衍していった先には、個々の存在の多様性を排除しようとする全体主義的な心証への傾きが形作られるはずである。
最善手を得られるかどうかが重要ではなく、それを自分で模索するというところに意味がある。
いつも手を差し伸べてなされる成功体験は、成功体験でもないものでもなく、逆に困った時は、誰かが助けてくれるという安易な依存体質を形成させるだけのことであって、易するところは何もない。
評価と言うものは、それが良ければ自信を持ってさらに励み、悪ければ、それを分析して克服できるように対策を練る、そういう使われ方をした場合にのみ意味を持つ。
研究者と言うのは、制限時間なしの職種である。もちろん、大学は1つの職場であり、勤務時間と言うものは決まっている。しかし、研究者と言う観点からは、どこまでが研究の時間でどこからがそれ以外の私的な時間と言う区別が極めて難しい。
基本的に生命は、保守的である。できるだけ「変わらない」という戦略を優先させることによって、自己の同一性を確保している。しかし、変わらなければ自己の子孫を残すこと、すなわち、自己拡大(自己複製)が達成できない。
デジタルはディジット、つまり指に由来する言葉である。アナログは連続量と訳されることが多いが、もともとはanna (類似の)とログ(論理)に由来する言葉である。
真のコミニケーションとは、ついに相手が言語化しきれなかった「間」を読み取る努力以外のものでは無いはずである。それが、デジタル表現のアナログ化であり、別名、「思いやり」とも呼ばれるところのもの。
肉筆で手紙を書いていた頃、書くという行為の中で、自分の考えが徐々に整理されていくのを実感できた。
自分だけが感じたことを伝えるために、万人の共通感覚の表象である形容詞に頼らない事は、基本中の基本。
- 感想投稿日 : 2023年8月15日
- 読了日 : 2023年8月15日
- 本棚登録日 : 2023年8月15日
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