ヘーゲル『精神現象学』 2023年5月 (NHKテキスト)

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  • NHK出版 (2023年4月24日発売)
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 なんの疑いももたずに「絶対にこれが正しい!」と持論や既存の価値観に固執する人と比べれば、さまざまな問題を懐疑的にとらえ、現実の矛盾をきちんと表現しようとする論破好きはまだマシかもしれません。しかし、彼らには決定的に欠けているものがあります。それは「協働」の態度です。
 やたらと論破を試みる人は、他者との意見の違いを踏まえて反論しているように見えますが、それは違います。彼らは反論すること自体を目的としていて、相手との共通意識に辿り着くことは目指していません。それゆえ、自身の意見を反省して修正したり、他者との意見の違いを調停する態度がないのです。つねに「自分が正しい」状況をつくるため、議論の展開に合わせて立場をころころと変え、相手を言い負かそうとする。それをエスプリに富んだしかたーーオーディエンスが喜ぶようなやり方でやっているにすぎないからです。
 そういった人々のことを、ヘーゲルは次のように評しています。
 それはつまり一般的な欺罔(きもう)であって、自己自身をも他者たちをも欺くものとなるのである。このような欺瞞を口にするとは恥知らずなことであるが、その無知こそがまさにそれゆえに最大の真理なのだ。
 繰り返しになりますが、懐疑主義は重要です。例えば、伝統や常識の名のもとに差別が温存されていたら、疑いの目を向ける必要があるでしょう。ただし、すべてをひたすら疑っていたら規範やルールが底抜けになって、社会全体が不安定化してしまうので、何らかの形で別の「真理」を固定化していかなければなりません。ところが、他者を論破することばかり試みている人々からは、固定化に向けた他者との協働が見えてこない。これこそが、「教養」の意識の限界なのです。

 私たちは、これまでの自分をみずから超えていく力を持っていますが、人間を学び成長させるような「ほんらいの経験」は、これまでの自分を否定することでもあります。その過程は、自分自身に暴力をふるうものとして感じられる場合があるとヘーゲルは「序論」で指摘しています。
 この暴力を感得するとき、真理を前にして不安はたじろいで、喪失するかもしれないと脅かされているものを維持しようとつとめるだろう。
 今までの自分を捨てなければいけないという不安が、私たちのうちに「真理への恐怖」を呼び起こします。これが勝ると、自分の誤りを認めたくない、変わりたくないという「制限された満足」に固執する態度が現れてくる。これが動物的な意識の特徴です。教養がもたらした近代の自由を拒絶し、自然に帰ろうとするディオゲネスの態度は、まさに「再動物化」という病理の現れなのです。
 私たちは、教養の矛盾を再動物化の病理を避けつつ、乗り越えなければなりません。そのためには、他者と共有可能な客観的な知(真理)を見つける必要があります。そのためには、論破ではない形で他者との関係性を再構築をしなければなりません。

「良心」とは何でしょうか。ヘーゲルによれば、伝統や宗教にしたがうのではなく、自分が正しいと思っていることを、みずからの判断で行う意識を指します。
 良心は、みずからの判断が「みんなにとっても正しい」と思うから、そのように行為します。そうした良心のあり方を、ヘーゲルは「道徳的な天才」と呼びました。自分だけでなく、他の人にも妥当する正しさを、神のような外的な権威に依らず自分で作る才がある、ということです。
 ただそれだけだと、「良心」は非常に独りよがりなものになってしまいますよね。だから、みずからの判断や行為が、みんなにとっても正しいと思う根拠を、ちゃんと「説明すること」ができないといけない。これが良心の大きな特徴の一つです。「聖書にそう書かれていたから」とか「親や年長者からそう教わったから」といった理由ではなく、なぜそれが正しいと思ったのか、なぜ普遍的だといえるのか、みずからの言葉で説明できる。自分の見解や判断が正しいものであることを、他の人に承認してもらいたいから、きちんと説明し、行為する。それが良心です。
 ここで重要になるのが、他者の視点です。自分が正しい、あるいは良いと思うことが、単なる「思いなし」か、それとも客観的で普遍的なものになっているかは、他者が私の挙げる根拠を受け入れてくれるかどうかで決まります。説明しても、「そんなのおかしいよ」といわれれば、独善的な「思いなし」だったことになる。他人が承認してくれるーーつまり、評価し認めてくれることが重要です。つまりこの過程は、必ず他者を巻き込んで展開されるという点で対話的であり、相手とのやり取りを通じて展開されるのです。
 何が正しいかはダイアローグ(対話)によって決まるーー当たり前のようにも思えるヘーゲルの主張は、道徳法則をめぐる議論に大きな転換を迫るものでした。というのも、第2回で触れたように、ヘーゲル以前の哲学は基本的に個人主義モデルだったからです。道徳的な「正しさ」を吟味する方法も同様です。その典型例が、カントの定言命法です。

 繰り返しになりますが、相互承認によって社会からコンフリクトそのものがなくなるわけではありません。あくまでも、コンフリクトの適切な処理を可能にする態度が相互承認だということです。
 そのような到達点を、ヘーゲルは『精神現象学』の最終章で「絶対知」と呼びました。絶対知というと、絶対的に正しい知を手に入れた状態をイメージされるかもしれませんが、それは間違いです。また、素朴な意識から出発して「教養」「啓蒙」「良心」へと長い旅を続けてきた意識が、ようやく辿り着いた安住の地というわけでもありません。
 なぜ間違いかといえば、私たちはあくまでも有限だから、絶対的に正しい知のもとで安住などできないからです。主観的確信と客観的知、普遍性と個別性、自分の判断と社会の規範ーーこういった緊張関係から生じるコンフリクトを相互承認に基づいて調停し、一緒に考えながら、絶えず新たな知を反省的に生み出していく。これは、道徳や政治といった領域はもちろんのこと、自然科学でも同じです。この問いのプロセスは永遠に続いていく。まさに、そのような「開かれた始まり」こそが、近代の到達点としての「絶対知」なのです。
 先に引用した文章のなかに「相互承認が絶対的な精神である」という一文がありました。これまでの記述からもわかるように、この「絶対精神」も、つねに新たな知に開かれている精神のありようを目指しています。「絶対知」や「絶対精神」を全知全能の神の視点として誤解する人が絶えませんが、それはへーゲルが考えていたこととは正反対なのです。ヘーゲル哲学のエッセンスは、神が死んだ近代という時代における人間の有限性の肯定なのですから。

 協働の負担を嫌がる人たちは、対立する相手と議論したり、「なぜ彼らはそう主張するのだろう」と想像力を働かせたりする代わりに、「あいつらは話のわからないバカだから」と斬って捨てます。時間も手間もかかるだけでなく、自分も傷つくことのある他者との協働の道を選ぶか、「バカは相手にならん」と自分たちの価値観に閉じこもる道を選ぶかーーその選択は私たちの「自由」です。後者の道を選ぶ方がもちろんずっと簡単でしょう。ただし、自分の狭い世界に閉じこもって他者を否定する行為は、第2回で指摘した「再動物化」という病理的な態度だということは強調しておきましょう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2023年7月29日
読了日 : 2023年7月16日
本棚登録日 : 2023年7月16日

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