愛書狂 (平凡社ライブラリー)

  • 平凡社 (2014年5月9日発売)
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・生田耕作編訳「愛書狂」(平凡社ライブラリー)もまた書物をこよなく愛する人々のアンソロジーである。例のフローベール「愛書狂」に始まつて、A・ デュマ「稀覯本余話」、ノディエ「ビブリオマニア」、アスリノー「愛書家地獄」、ラング「愛書家煉獄」の計5編を収め、更に作者名なしの、たぶん訳者自身による「フランスの愛書家たち」を載せる。作者紹介と訳註があるのは親切でありがたく、私にはうれしい。さうして最後にあとがきと恩地源三郎「解説ー〈愛書狂〉生田耕作」がある。至れり尽くせりである。本書の元版は1980年白水社刊、もはや古典的名著であらう。
・デュマ「稀覯本余話」はエルゼヴィル版「仏蘭西風菓子製法」なる書を読む男の蘊蓄話とでも言へようか。このエルゼヴィル版はエルゼヴィル家 代々によつて出版された書をいひ、しかもその代々によつて様々な違ひがあるらしい。それが無知の男の問に答へる形で語られる。たぶんそれだけの話と言つて良い。ただ、そんな書誌的な蘊蓄話でもそれなりにおもしろい。学問的といふよりは実用的な事柄なのであらうと思ふが、それにしても日本の書誌学とはずいぶん違ふ世界である。最後の方に「エルゼヴィル版の値打はすべてその余白の寸法によって決まる。余白が広ければ広いほど値打の上がるのがエルゼヴィル版です。」(53頁)とある。「余白の全くないエルゼヴィル版など一文の価値もない。」(同前)といふのは古書的価値を言ふのであつて、学問的な価値ではないのであらう。和本の場合、残存数自体が少ないから、匡郭や余白を問題にしたところで、値段が高いのに変はりはない。もつともこれは19世紀の話、現在では 欧州でも事情が変はつてゐるのかもしれない。この余白、ノディエ「ビブリオマニア」でも問題になつてゐる。これは愛書家、いや愛書狂か、テオドール氏に対 する追悼文の形を採つた作品である。この人の死因が余白にあつたらしい。売りに出た「一六七六年版のヴェルギリウスの大型判」(72頁)の余白が自分の所蔵本より「三分の一行」(同前)大きいといふのである。テオドール氏はこれが悔しくて、これを気に病んで「重症のチフス」(同前)に罹つたのであつた。ビブリオマニア・チフスである。何とつまらぬことをと言ふ勿れ。「ネルリ版の『ホメロス』の値段を百ルイつり上げたのは三分の一行なんだぜ!」(73頁)と いう世界である。テオドール氏所蔵本がどのくらゐになるのか、本人にはよく分かつてゐたのであらう。いづれにせよ、これは物理的にはごく小さいものである。初版本を探し回る男たちよりも更に小さな世界への拘泥である。その意味ではつまらぬと思ふのだが、ただこの愛書家達の書は古い。和本のやうに手垢にまみれて古ぼけてはゐない。装丁は美しい。「自分で本を買い、お気に入りの製本師にモロッコ革の表紙で装わせ云々」(149頁)といふ世界だから、1冊として同じ本はできないのであらう。余白も問題にならうといふものである。美しい装丁に小さな余白、それは実に重大な問題なのである。ただ集めるだけのコレクターは装丁の美しさを求めるものであらう。その一方で、古書価を問題にするのに余白を以てする人々もゐるのである。奥が深いといふより、実に大変な拘泥の世界である。そんなわけで、日本と欧州の古書の世界は、特にフランスのとは大いに違ふ。さうして私は、当然のことながら、こんな愛書家、愛書狂とは無縁の 存在であると思ふばかりである。それにしても21世紀の日本に生きてゐてもこんな世界が堪能できる。ありがたい時代である。次なる愛書狂の書はいつ出るのかと首を長くして待つてゐよう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2014年6月22日
読了日 : -
本棚登録日 : 2014年6月22日

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