民は絶望にうちひしがれる、泣き続ける。
それでも生きていくために、一歩一歩足を踏みしめて歩き続けなければならない。
市井の人びとの暮らしに焦点をあてた作品はドラマチックなものではなく、どちらかといえば地味だった。国が傾けば、毎日必死に働いても苦しい暮らしから抜け出すことは出来ないし、獣のような罪人も現れる。人々は目の前のことでいっぱいいっぱいになる。
だからといって、楽しいことや嬉しいこと笑顔になることが全くないわけではない。
無能な王に、陶鵲を通じて民の苦しみと民が失われるのは惨いなことだとわかってほしいと願う丕緒に蕭蘭は告げる。「今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく渇いたとか、そういうことを喜んで日々を過ごしているのかも」と。悲惨な状況を悲惨なもので伝えることは、悲惨なことから目を背け耳を塞ぐことにもなる。丕緒は新王陽子に、美しく儚く消えていく陶鵲で伝える。「胸が痛むほど美しかった」陽子の言葉に彼は気持ちが通じたことがわかった。
戦により焼けた建物と一緒に死んでしまっただろう燕の雛たち。だけど新しく出来た巣には去年よりたくさんの雛が生まれる。国のためだと言われて、ほんの少し意義のあることをしている気分で託された笈筐を抱いて走る若者たち。
人々は自分の出来る精一杯の生活のなかで喜びを見つける。それがどれだけ尊く、美しいことなのか。
きっと、一つ一つの小さな美しい物語が語られることが大切なのだと思う。王は人々の微かな希望の種をしっかりと育てでほしい。どうか腐らさないで。絶やさないで。そう願ってやまない。
- 感想投稿日 : 2019年9月21日
- 読了日 : 2019年9月21日
- 本棚登録日 : 2019年9月21日
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